
人間は7秒で気持ちを切り替えられる
主力選手が離脱したときでも、代わりを任された選手の活躍次第で、チームはいつも以上の力を出すことができる。それは野球のようなチームスポーツの奥深いところだ。だが、試合中に起きるミスや失敗は、なかなか切り替えることが難しいのではないだろうか。
高校野球では、ひとつのミスがチーム全体に伝播し、それまでパーフェクトに抑えていたはずが1回で一挙6点を奪われるといったシーンもよく見られる。そこを最小失点で抑えて、その裏1点でも取り返すことができれば、相手に流れを渡さず、チームの結束が高まることで、むしろ選手個々のギアが上がったりもする。失敗を引きずるのと、すぐ切り替えられるのとでは大きな違いだ。
井端はこう語る。
「気持ちの切り替えは、野球選手なら毎日のようにやっていること。打つときは1打席1打席、切り替えて打席に立たなければならないし、守備ではミスしようがすぐボールは飛んでくるわけだから。僕は高校時代、監督から『人間は7秒で切り替えられるんだ』と口酸っぱく言われてきて、気持ちをすぐ切り替える習慣がついた。気持ちの切り替えは早い方だったと思います」
かつて堀越高校を甲子園に導いた名匠・桑原秀範氏は、選手がミスを引きずらないよう口うるさく指導したという。
試合中でも瞬時に切り替えの効くルーティンとは?
では、野球選手やプロアスリートは、気持ちを切り替えるために、何を実践しているのだろう。具体的な方法は選手それぞれ異なるが、ひとつ言えるのは「ルーティン」だ。すなわち「負の思考・感情」を停止させるための「しぐさや行動」を決めておくということ。例えば、低迷していた名門・県立岐阜商業を甲子園4強へ導いた藤田明宏元監督は、ミスをして下を向くしぐさが一番チームに伝染しやすいとして、選手たちに「切り替えルーティン」を作らせた。ミスをしてしまった後、ジャンプをしたり、グラブをポンと叩くといった動作を入れて、周りの選手にも「切り替えたよ」ということを知らせる(※1)。動作を入れることで気持ちも変わるという。
ルーティンというと、ラグビーで五郎丸歩選手が見せたキック前のルーティンや、内村航平選手の跳馬競技の直前動作を連想しがちだが、瞬時に気持ちを切り替えなくてはならない試合中においても重要だ。ラグビー日本代表のメンタルコーチを3年間つとめ、2015年W杯南アフリカ戦の歴史的勝利の功労者と評される荒木香織氏は、著書「心の鍛え方」でこう記している。
「立川(理道)選手は、次のプレーに集中するときには、指を触ることで気持ちを切り替えるようです。陸上競技の長距離選手のなかには、ある指だけ爪の色を変えて、イライラしたらそこを見るという選手もいます。(中略)訓練をすれば誰でもこうした能力、すなわち思考を停止する能力を身につけることができるのです」
反省することと引きずることを明確に区分けする
野球やサッカー、ラグビーのような、すぐ次のプレーが始まる競技では、ミスにこだわっている時間があるなら、自分ができることに集中しなくてはならない。高校球児たちは、よく帽子のつばの裏に「平常心」「仲間に感謝」「楽しもう」など、大事にしている言葉をマジックで書き込んだりする。試合中、そこに目をやることは、実は言葉を思い起こすというより、ネガティブな思考をストップさせ、気持ちを切り替えるという心理効果のほうが大きいといえる。
しかし一方で、井端は「ミスしたことは、しっかり反省しておかないといけない」とも言う。
「反省はしておかないと、また次の試合で行き当たりばったりになってしまう。でも、どこかで切り替えないといけないので、僕はナイターが終わってその日の夜12時までは反省する。なぜああいうミスが起きたのか、なぜあの打席で打てなかったのかということは12時までは考えていたけど、12時に切り替えると決めていた。日付が変わったらもう明日。12時を回ったら『よし、明日は頑張ろう』って切り替えるんです。」
先述の荒木香織コーチもまた、同著の中で「原因を整理する」ことの大切さを説いている。実際、不調や不安を引きずっている選手にとっては、コレといった原因は特定できないものだが、その原因をひとつひとつ抽出し、対処を探すことで、やるべきことが見え、不安になる暇はなくなるという。単に「目を瞑って、よいことをイメージする」などというイメトレでは、解決にならないというのだ(※2)
トップアスリートが身につけるレリジエンス
また、ヒューマンエラーに詳しい心理学者の言葉を借りれば、ミスをしたときに重要なのは「失敗の原因を何に帰属させるか」だという。失敗を自分の努力不足に帰属させる人は同じ失敗を繰り返さず、失敗を成功に結びつける可能性が高い。逆に失敗の要因を他人や運など外的状況に帰属させる人は、失敗を繰り返す傾向にあるという(※3)。苦難の状況からしなやかに立ち直る力のことを心理学の用語でレリジエンス(弾力性、回復力)というが、トップアスリートはそうしたレリジエンスを自らのルーティンや経験によって身につけているのだ。
「ケガや不調がすべてマイナスではないと思うんですよ。デッドボールで骨折したとすれば『こう避ければよかったんだ』とか、極端に言えば、あのケガのおかげで体の仕組みがわかったとか…… ケガで離脱する時間があったら、そのぶん原因を突き止めていけるわけだし、落ち込むだけでなく、次に生かせるチャンスがそこにあるのかなと。僕らはそういうことを子どもの頃から何度も経験してきている」
「もしケガや不調で落ち込んでいる球児に助言するとしたら」との問いに、井端はそう答える。
コロナ禍での東京五輪が1ヶ月後に迫ったいま、その賛否は国内においても分かれ、先月には競泳・池江璃花子選手のSNSに辞退を要求する投稿もあったが、池江選手は「やるならもちろん全力で、ないなら次に向けて頑張るだけ」とコメントした。侍JAPANのコーチを務める井端もまたこう語る。
「やる前提で準備していくだけ。無くなったらそれはそれで仕方ないと思うし、やると決まったらやるしかない」
ミスをしない人間はいないし、そうしたときこそ「正しく気持ちを切り替える」ことが大切になる。不安が不安を呼び、他者へのバッシングがいかようにでも起こる今の時代だが、そうしたときこそアスリートたちから学ぶことは多いはずだ。
(了)/文・伊勢洋平
※1 『心が熱くなる! 高校野球100の言葉』田尻賢誉/著(三笠書房)より
※2 『ラグビー日本代表を変えた「心の鍛え方」』荒木香織/著(講談社)より
※3 『失敗の心理学 ミスをしない人間はいない』芳賀繁/著(日経ビジネス文庫)より
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