Center line 〜センターライン〜
元読売巨人軍・井端弘和氏が、野球にまつわる様々なテーマを、独自の目線で深く語るYouTubeチャンネル『イバTV』を配信中! コラム 〜センターライン〜 では『イバTV』の未公開部分を深堀りし、テーマに沿ってお届けします。
[連載 第1回]
盟友・井端弘和の語る阿部慎之助
巨人、そしてJAPANの土台を担った稀代の捕手(前編)
Posted 2019.10.25
©YOMIURI GIANTS

引退と聞いて思い出されたあの一言

「引退と聞いて、ひっくり返りそうになるほど驚きましたよ」
ジャイアンツが5年ぶり37度目のリーグ優勝を決めた3日後の9月24日、阿部慎之助の引退が報じられた。その一報を知った元チームメイトの井端弘和は、阿部が試合前だということも忘れ、思わず電話したという。

「夕方5時くらいだったかな。そういえば試合前だし、出るわけないかと思ったんですが、40分後にかけなおしてくれて。『ちゃんと報告できなくて申し訳ない』と。僕はまたそれにびっくりして『いや、そんなこといいから、試合始まるでしょ、頑張って!』って、そのときは慌てて切ったんです」

井端が真っ先に電話をしたのは訳がある。
中日に在籍していた2013年シーズン、右ひじの不調と右足首の怪我により思うような結果を残せなかった井端は、ペナントレース終了後、翌年を見据えて手術を決行した。だが、その年に一新された球団フロントが、かつての3億円プレーヤーに提示した年俸はそのわずか10分の1。期限までに引き止めるような素振りもなかった。

球団に必要とされていないと感じた井端は、期限日まで考えた結果、16年在籍した中日を退団。自由契約が発表され、井端は一番に連絡のあったジャイアンツへ入団を決意する。
「あのとき、阿部選手から電話をもらってね。『巨人に来てくださいよ』と」

今も頭から離れない大胆な配球

1979年生まれの阿部慎之助と1975年生まれの井端弘和がレギュラーとして活躍し出したのはほぼ同時期。ジャイアンツの新人捕手として2001年の開幕スタメンに名を連ねた阿部に対し、井端がドラゴンズの2番遊撃手として1軍に定着したのも2001年だ。2人はこの年、第34回IBAFワールドカップ日本代表にも選出。最強キューバと熱戦を繰り広げたチームメイトでもある。

「中日時代に思っていたのは、阿部慎之助を研究しなければ巨人は打てないということ。僕は対ピッチャーというより、対阿部慎之助で臨んでいました」
一番、“読み合い”をさせてもらったのが阿部慎之助だと井端は語る。
「対戦相手のキャッチャーの配球は頭に入れるようにしていたんですが、彼の配球というのは、1打席全てまっすぐで来たりする。それには驚きましたよね」

いつ変化球が来るのかと思っていると、全部まっすぐ。ときには全球カーブを重ねてくることもあった。しかもそれを3連戦の初っぱなの打席で投げてきたりする。阿部にマークされた打者は気持ち悪さが残ったまま次の打席、翌日の打席へと向かうことになる。

「次のカードでもその記憶がよぎっちゃうんですよ。打てた次のシーズンはまたガラッと変えてくるし、本当に頭脳を鍛えさせてもらった。一流のキャッチャーは、そういう“後に残る”ことを先にやってくるんですが、彼の配球は今も頭に残っているくらいです」

(つづく)/文・伊勢洋平