Center line 〜センターライン〜
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[連載 第9回]
夢のバトン 〜天国の野村克也さんへ〜(前編)
Posted 2020.03.13

晩年まで高校野球の監督を熱望していた野村さん

「ユニフォームを着て、グラウンドで死にたい。できうるならば、優勝して胴上げされている最中に。それが甲子園であったら、これほど理想の最期はないだろう」

先月ご逝去された野村克也さんは、著書「高校野球論 弱者のための勝負哲学」の後書きにそう綴っていた。選手として戦後初の三冠王に輝き、監督として3度の日本一を果たした偉大な名将は、なぜ晩年まで高校野球の監督を夢見ていたのだろうか。その原点は、高校卒業後、テスト生として南海ホークスへ入団したころに遡る。

「がっかりするなよ。お前らはカベ(ブルペンキャッチャー)として採用されたんだ。3年でクビだ」
1954年、南海の新人テスト合格者は野村さんを含めて7人。うち4人が捕手だったという。野村さんの出身校である京都府立峰山高校は、当時、監督もコーチもいない丹後地方の無名校。レギュラーの座を掴む選手の多くは甲子園に出るようなエリート校の出身者だった。

「三年でクビ」。入団するやいなや、そんな先輩の言葉を聞いてショックを受けた野村さんは、それを機に高校野球の監督を志すようになる。京都で甲子園に行くのはいつも市内の強豪校。母校のような郡部の高校は野球のイロハさえ知らない。どうせ3年でクビになるのなら、3年間、プロの世界で野球を学び、母校に戻って弱小チームを指導して甲子園に送ってやりたい ―― そう思ったのだという。

結局のところ、努力の甲斐あって鶴岡一人監督に認められた野村さんは、3年目に一軍へ登録。以後、日本球史に残る名捕手として活躍し、1969年からは4番・正捕手でありながら南海のプレーイング・マネジャーに就任。現役引退後はヤクルト、阪神、楽天の監督として手腕を発揮することになるのだが、その間も、池田高校の蔦文也監督や、取手二高と常総学院を率いた木内幸男監督の活躍を見るにつけ高校野球への思いを強くしたという。かつて万年Bクラスだったヤクルトの監督に就任した頃を振り返って、野村さんは前述の著書でこう語っている。

「選手たちは強くなりたいという気持ちにあふれていた。私の話をメモをとりながら真剣に聞いた。日に日に、選手の目が輝いていくのがわかった(中略)。高校生は、当時のヤクルトの選手以上に素直だろう。元プロ監督の私を信頼し、喜んで話を聞くと思う。そして、私が言うことを、スポンジが水を吸い込むように吸収していくと思う」

甲子園の名将たちが口にする人間愛

高校野球がふだん野球を観ない人でさえ夢中にさせるのは、負ければ終わりというその舞台の中で、1試合1試合、ひたむきにプレーする選手たちの姿があるからだろう。プロより力や技術は劣っていても、監督やチーム、積み重ねてきた練習を信じて球場を駆ける。その純粋な野球への姿勢が人々の胸を打つ。高校野球は、そうした純粋な選手たちと、その可能性を信じて向き合う監督との物語でもある。

「純な高校生を教えるのだから、監督も純じゃないといけない」(※)
そう語ったのは、全国屈指の練習量で日大三高を率い、2001年と2011年の夏、2度の全国制覇を成し遂げた小倉全由監督だ。ウォームアップやトスバッティングを選手と一緒に行い、試合では選手とともに涙を流す。裏表なく選手と接し、グラウンドを離れても父親のように私生活を気にかける。
「監督を甲子園の頂点に連れて行く」「小倉野球なら必ず勝てる」
選手たちからそうした言葉が出てくるのは、本物の信頼関係があってこそだ。

取手二高を率いてKKコンビ擁するPL学園を撃破し、常総学院時代に東北高校のダルビッシュ有を攻略した智将・木内幸男監督は、その采配の妙を「木内マジック」と称されたが、本人はのちにこう語っている。
「木内マジックが何かと言えば、今までの洞察力。要するに選手を見続けていること」(※)
一見すると放任主義的なのびのび野球。だが、木内監督が一貫していたのは「子どもたち中心の野球をさせたい」という思いだった。上から押し付けるのではなく、選手たちの長所を見極めてその気にさせる。相手チームや観客から見れば「まさか」の奇策でも、選手一人ひとりを見守ってきた監督にとって、それは「この子はこれが得意だから、こう使う」といった定石だったのだ。

選手とどのように信頼関係を築いていくかは、それぞれ監督の個性によって異なるものだ。だが、甲子園の頂点に立つ名将たちが口にするのは、選手の成長のために指導者が愛情を注ぎ、野球で人を育てていく、いわば人間愛の言葉でもある。

生前、野村さんはつねづね自身について「野村−野球=0」と表現した。その根底にあるのは野球愛であり、指導者としての人間愛。だからこそ野村さんは、どの球団を率いても選手やファンから愛され、尊敬され続ける存在だった。1961年の柳川事件を機にプロ野球OBが高校野球の監督になる道は閉ざされ、野村さんの思いが実現することはなかったが、甲子園という舞台は、誰よりも野球を愛した野村さんらしい、見果てぬ夢だったのではないか。

(つづく)/文・伊勢洋平

※『人を動かす高校野球の名言』田尻賢誉/著(ベースボールマガジン社)より