Center line 〜センターライン〜
元読売巨人軍・井端弘和氏が、野球にまつわる様々なテーマを、独自の目線で深く語るYouTubeチャンネル『イバTV』を配信中! コラム 〜センターライン〜 では『イバTV』の未公開部分を深堀りし、テーマに沿ってお届けします。
[連載 第10回]
夢のバトン 〜天国の野村克也さんへ〜(後編)
Posted 2020.03.27

反骨精神と創意工夫を育んだ、若き日のグラウンド

「王や長嶋はヒマワリ。それに比べれば、私なんかは日本海の海辺に咲く月見草だ」
野村さんの代名詞となるこの発言は、1975年5月22日、王貞治に続き史上2人目となる通算600号本塁打を記録したときのもの。記者会見の1ヶ月前からコメントを考えていた野村さんは、人知れず夜に咲く故郷の小さな花を思い出し、自らを月見草に喩えることにしたという。

終戦から3年後、中学2年で野球部に入部した野村さんは、4番・キャッチャーに抜擢。奥丹後地方予選で優勝し、京都府の4強入りを果たしたが、竹野郡網野町の実家は母子家庭で貧しく、野村さんは小学生の頃から新聞配達などのアルバイトをして生計を助けていた。中学で野球に出会った野村さんが、プロ野球選手を志したのは、いわば貧しさからの脱却のためだった。

母親は野球選手はもとより高校進学に反対し、繊維問屋の丁稚に出すつもりだったが、進学から就職へ進路を変更した兄の計らいで、野村さんは地元・峰山高校工業化学科への入学を実現。当時の峰山高校野球部は監督もコーチもおらず、一時は廃部の危機にさえ陥ったが、そうした中でも野村さんは自ら監督兼キャプテンとしてチームを支え、懸命に野球を続けた。その姿を見て、プロ入団への後押しをしてくれる恩師も現れた。

「強豪校に行っていたら、やらされる練習に満足し、創意工夫と試行錯誤を繰り返す習慣もつかなかったかもしれない。その意味では、いまの私を培ったのは高校時代の三年間だった」(『高校野球論 弱者のための勝負哲学』より)
劣等感とそれをバネに育まれた反骨心、そして球界に多大な影響を与えた野球理論は、そうした若き日の経験が土台となっている。

受け継がれる不朽の野球理論と人生哲学

南海へ入団して以降は1961年から8年連続の本塁打王、1963年にはシーズン52本塁打、1965年には三冠王に輝くなど、パ・リーグを代表する大打者へと邁進した。もっとも当時のパ・リーグ人気はいまひとつで、いつも新聞紙面を賑わすのは巨人の不世出のスーパースター、王・長嶋だった。小鶴誠の記録を13年ぶりに更新した52本塁打の記録も、翌年には王貞治に塗り替えられた。「月見草」はそんなONと日陰者の自分を味わい深く対比した表現だが、捕手というポジションを考えればなおのこと、その記録に驚嘆を禁じ得ない。

さらに野村さんの功績を語るうえで欠かせないのは“考える野球”を後世へ広めたことだろう。現役時代から日々の投球内容を記録し、蓄積した情報を分析して打者を抑えるデータ野球は60年代当時、画期的なものだった。南海の名参謀だった蔭山和夫や日本球界最初のスコアラーとされる尾張久次とともに戦術を磨いた野村さんは、1969年、プレーイング・マネジャーに就くと元大リーガーのドン・ブレイザーをヘッドコーチに招聘。ブレイザーから吸収したシンキング・ベースボールと類い稀な観察力で、独自の野球理論を培っていった。

「弱いチームでもデータを集めて考え、できるだけ多く有利な局面を再現できれば強いチームに勝つことができる」
そうした野球理論が脚光を浴びたのは、ヤクルトスワローズの監督時代。1990年、監督に就任した野村さんは、自らの理論を“ID野球”と銘打ち、講義スタイルのミーティングや適材適所の選手起用でチーム改革に着手。一方で、伸び盛りの選手ほど褒め、一流と認めた選手は非難するなど、独自の育成術で指導力を発揮し、下位に甘んじていたスワローズを9年間で3度の日本一を達成する常勝軍団へ変えてみせたのだ。

後に選手兼監督としてヤクルトを率いた古田敦也、監督就任1年でリーグ優勝を果たした真中満、今シーズンから監督に就く高津臣吾、アテネ〜北京五輪で日本代表キャプテンを務めた宮本慎也、現・侍JAPANの監督を務める稲葉篤紀ら、ヤクルト時代だけでも野村さんのもとからは、球界を牽引する数多くのリーダーや指導者が生まれている。野村さんの野球理論と指導哲学は、今の日本球界の血肉となっているといっても過言ではない。

井端弘和の人生を変えた、野村さんの一言

意外なことだが、稲葉監督とともに侍JAPANを率いる井端弘和もまた、野村さんと不思議な縁のある一人だ。直接の師弟関係があるわけではない。だが、中学時代に出会った野村さんの一言で、井端の人生は大きく変わった。

「野村さんはヤクルトの監督に就任する前、港東ムースというリトルシニアチームを指導していました。僕はたまたま同じ地区のチームでピッチャーをしていたのですが、地区の準決勝で投げていたのを、もう片方のブロックで勝ち上がっていた野村さんが見ていたんです。その試合は勝ったのですが、僕のチームはみな野球が一番という子供たちではなく、僕を含め半分くらいの選手が決勝に出なかった。それで『なんで井端はいないんだ』という話になって(笑)」

「その後、中学3年生の夏休みを迎えた頃、突然、野村さん本人から電話があったんです。『どこか行く高校は決めてるのか?』と」
漠然と地元の公立高校への進学を考えていた井端に、野村さんは息子のいる堀越高校への進学を進言。さらにこう付け加えたという。
「ピッチャーはやめて高校ではショートをやれ」
野村さんは、そのことを「バッティングにセンスを感じたし、身のこなしが内野手にぴったりだった」と後に語っているが、もし、その出会いがなかったら、中日ドラゴンズ不動の二遊間“アライバ”は存在しなかったのかもしれない。

「プロに入ってから言われたのは『人と違う感性と目線を持て』ということ。僕も体が大きいわけではないし、駆け引きや頭を使う大切さは分かっていましたが、これは難しかったですよね。僕から見たら、野村さんは自分たちとは違うもう一つ上の世界にいるような存在で、そこでの会話はまだできてないのかなと思うことがあるんですよ。理解できたとしても、それは野村さんが子どもにしゃべるように話しているからで、僕は最初に会った中学生の時のままの会話をずっとされていたんじゃないかって……」

「ただ、解説者やコーチになってからも、気持ちや技術面だけで片付けるのではなく、なぜ良くなったのか、悪くなったのか、なぜそうした気持ちが出てきたのか、選手のことを解釈しながら見るようにはしています。そうして1ミリでも1センチでも野村さんに近付いていければと思うんですよね」

月見草がひっそりと咲く暑い夏、今年は甲子園、来年は東京五輪と、球界が一層盛り上がることだろう。稲葉監督や井端コーチ、そして侍JAPANの選手たちが天国の野村さんに誓うのは、もちろん世界の頂点だ。

(了)/文・伊勢洋平