Center line 〜センターライン〜
元読売巨人軍・井端弘和氏が、野球にまつわる様々なテーマを、独自の目線で深く語るYouTubeチャンネル『イバTV』を配信中! コラム 〜センターライン〜 では『イバTV』の未公開部分を深堀りし、テーマに沿ってお届けします。
[連載 第18回]
野球ができる喜び、応援できる喜び(後編)
Posted 2020.07.28

野球をしたいという気持ちが、希望につながる

コロナ渦の状況下に限らず、自然災害であったり、もっと遡れば戦争であったり、野球ができるという当たり前の日常が失われることは、決して起きてほしくなくとも起こりえることだ。だが、そうした状況下でこそ何より大切なのは「野球をやりたい」という率直な気持ちだろう。野球であれ、何であれ、好きな何かを持つということが希望となり、周囲に元気を与えることにつながるからだ。

日大三高時代にセンバツ準優勝を果たし、現在オリックス・バファローズで活躍する山﨑福也投手は、高校進学を控えた中学3年生のときに小児脳腫瘍を摘出し、甲子園のマウンドを踏んだ選手だ。誘いを受けた日大三高へスポーツ推薦の健康診断書を提出する際、念のために受けたMRIで見つかったのが、極めて手術が困難であり、全摘しなければ10年も生きられないとされる上衣腫の脳腫瘍。母や伯母らとさまざまな病院を回り、意見を聞いた山崎は、脳腫瘍だけで年200件もの執刀実績を持つ北海道大学病院(当時)の澤村豊医師のもと手術を行うことを決意した。

腫瘍を全て取り切ることができなければ、再び腫瘍は肥大化してしまう。かといって、腫瘍を全摘するにはあらゆる脳神経の集中する延髄に触れなければならず、0.1mmでも傷つけてしまうと呼吸や歩行すらできなくなる危険があった。手術が決まって以来、10代の山﨑福也はこんな言葉を繰り返していたという。
「ぼく、また野球できるかな」

そのエピソードを克明に描いたノンフィクション『甲子園がくれた命』(中村計・著)には、当時、山﨑の相談相手となっていた保健室の養護教諭の言葉が記されている。
「福也君は、自分が死んでしまうかもしれないということよりも、いつも日大三高で野球ができるかどうかを心配していた。そのことがかえってよかったのだ。『死んじゃうのかな』っていうより『野球できるようになるのかな』っていうほうが前向きな心配ですからね」
名医の6時間に及ぶ手術は成功し、驚異的な回復をみせた山崎は、小倉全由監督の待つ日大三高のユニフォームに袖を通すこととなったのだ。

井端弘和が母校・堀越高校をサポートする、その思い

プロ野球でも病気や怪我、不慮のアクシデントなどが原因で野球のできない日々を経験した選手は多い。かつて日大三高としのぎを削った堀越高校の井端弘和も、高校時代と大学時代に二度も網膜剥離の手術を行い、ドラゴンズ時代には角膜ヘルペスが発症して戦列を離れるなど、稀代の守備職人でありながら目の不安と闘ってきた経験を持つ。
「怪我や病気以前に、僕は小中学校の時に野球を辞めた時期だってある。でも、離れても『またやりたい』と思ったので、根っから野球が好きだったんだと思います。あとは戻る勇気があっただけで」
そう語る井端は、今年の状況を決してプラスに捉えているわけではない。

「代替大会が開催されたのはいいことですが、小中学校も含めて全体的には大会が減っているわけで、プロのスカウトが見る機会ももちろん減るし、高校や大学から誘われるような機会も減ってしまう。そうした状況が続くと、野球から離れる子や、他のスポーツに流れる子も出てくると思う。僕が言いたいのは、こういう年もあるけれど、そこで野球を辞めて欲しくないし、高校卒業をひとつの区切りとして野球から離れたとしても、この先、どんな形であれ、また関わってほしいということです」

母校の試合を観に行くことでもいいし、将来、子どもの野球の練習に付き合ったり、もちろん草野球チームでプレーすることだっていい。今年から井端は、母校である堀越高校野球部のOB会長を引き受け、母校の球児たちを励ましているが、そこにはそうした思いも込められている。
「堀越はもう20年以上甲子園に行ってない。今は監督もOBではないし、卒業後はそれっきりというOBも多くなっています。だから卒業してからも年に1度くらいは母校を応援するような環境を作りたいと思ったんですよね。先輩面して説教するようなものではなく、TwitterやHPなどで応援を呼びかけることで『試合に行ってみようか』『練習を見てみようか』と思う卒業生が少しでも増えて、後輩たちがもっと頑張れるようになればいいと思う」

こうした年だからこそ、野球を支えようという動きは地域でも起きている。青森県では、県の高野連や青森銀行野球部の有志たちが「2020年は甲子園と同じ土で完全燃焼を!」と銘打ったクラウドファンディングを行い、独自大会のメイン球場であるダイシンベースボールスタジアムに甲子園と同じ土を入れることに成功。球場職員が徹夜作業も厭わず整備に勤しんだ“甲子園仕様”の球場は、引き続き中学生の秋季大会でも使用される。

日の目を見なかった地方の強豪校には、「野球にはまだまだ未練がある」、「公式戦がほとんどできなかったので、卒業後も野球に打ち込みたい」と新たな闘志を燃やす球児もいる。進学校の野球部には「こういう形で最後の夏が終わってしまったからこそ、野球に携わる仕事がしたい」「野球の振興や発展について学びたいという気持ちが強くなった」という球児もいる。部員が揃わない中、急きょ助っ人で招集され「大負けしたけどすごく楽しかった」と、そのまま野球部に残った過疎地の高校生もいる。

“特別な夏”は、日本一を目指すという大きな夢が奪われる一方、野球ができる喜びや、人々の野球への強い思いとともに、新しい希望が芽生えた夏でもあった。

(了)/文・伊勢洋平

参考文献
『世の中への扉 甲子園がくれた命』中村計/著(講談社)