Center line 〜センターライン〜
元読売巨人軍・井端弘和氏が、野球にまつわる様々なテーマを、独自の目線で深く語るYouTubeチャンネル『イバTV』を配信中! コラム 〜センターライン〜 では『イバTV』の未公開部分を深堀りし、テーマに沿ってお届けします。
[連載 第19回]
フィールド・オブ・ドリームス 〜夢を追い続ける力〜(前編)
Posted 2020.09.18
©YOMIURI GIANTS

プロ野球選手になれる確率は、わずか0.16%

「成功する人と失敗する人の違いは、諦めるかどうかにある」
そう語ったのは、2011年に亡くなったアップル社の共同設立者スティーブ・ジョブズだ。iPodやiPhoneの開発で世界を変え、今でこそ成功者として多くの起業家やビジネスリーダーの尊敬を集めるジョブズだが、1976年、自分たちの手で製造したコンピュータ「Apple」で大金を得たジョブズは、その後、深刻な販売不振に陥ったり、会社から追放されるといった憂き目に遭い、10年以上もの間、辛酸を舐めている。人が夢を実現しようとするとき、その夢が大きなものであればあるほど、壁や困難は付き物だ。夢を抱きながらも失敗する人は、結局、困難を前に諦めてしまっているのだとジョブズは説いた。

生まれながらにして類まれなる身体能力が求められ、つねに記録や順位という序列が形成されるアスリートの世界では、ことさら「夢」は遠いところにある。インターハイや甲子園で活躍し、オリンピックに出場したり、ドラフト上位指名を受け、プロとして活躍できる一流のアスリートはわずかに一握り。プロ野球で言えば、2019年度のドラフト指名選手の合計は74名で、育成指名を入れても107名(うち21名は社会人)。高校・大学からプロになれる確率は、卒業年度の野球部員合計54,624人から算出すると0.16%という途方もない数字であり、さらにいえば、そのうち10年以上在籍できる者は4割しかいない。

かつて亜細亜大学からドラフト5位指名で中日ドラゴンズへ入団し、プロ4年目でレギュラーの座を勝ち得た井端弘和は、入団後の自身について振り返る。
「僕は、入団直後は『絶対に活躍してやる』というほどの強い気持ちはなく、同期でジャイアンツに入団した高橋由伸を上回ろうなんて気持ちも毛頭なかった。ただ、ずっと2軍で過ごしていた2年目、1つ上の先輩が自由契約になり、次は自分かという危機感はありましたね。2軍時代は早く1軍に上がりたいという思いでした。当時2軍監督だった仁村徹さんも厳しかったですから」
のちにベストナイン5度、ゴールデングラブ賞に7度選出される球界の名手でさえ、入団後の2軍時代は、いつ切られるか分からないという不安と隣り合わせだった。
「将来を期待されているドラフト上位の選手に比べたら、下位選手や育成選手はチャンスも少ないと思いますよ、現実的には」

日陰を歩んできた育成5位が、1軍の舞台で躍動

だが、そうした育成枠から数少ないチャンスをモノにし、いま、まさに夢を掴もうとしている異色のプロ野球選手がいる。高校野球での実績もなく、これまでドラフト指名のなかった大学からジャイアンツに入団した松原聖弥外野手だ。

体格に恵まれているわけでもなく、中学時代も目立つ成績を残せていなかった。地元大阪から意を決し、高校野球の名門・仙台育英に一般受験で入学した松原だったが、3年生時にはレギュラーから外れ、甲子園ではアルプススタンドからチームメイトを応援する控えに回った。一つ下の学年には1年生から4番を務める上林誠知(現ホークス)がおり、内野のレギュラーも後輩の熊谷敬宥(現タイガース)に奪われていた。だが、それでも松原が諦めることはなかった。かつて自分と同じように仙台育英のベンチ外から大学へ進学し、社会人野球を経てジャイアンツに入団した矢貫俊之投手(現ジャイアンツ ファームディレクター補佐)の存在を知った松原は、恩師・佐々木順一朗監督に進路を相談。明星大学を1部リーグ2位まで導いた浜井澒丈監督のもと野球を続けることを決意した。さらに松原は3年生で野球部を引退したのち、駅伝選手として陸上部に所属するという経験も持つ。東日本大震災の影響で、陸上部の主力選手が愛知県へ集団転校したため、助っ人としての参加だったが、体を休めることなく1日10km走を継続したという。

明星大学に進学した松原は、基礎練習や体力強化を続け、2年生になるとついに念願のレギュラーを奪取。4年までの3年間は通算打率3割を超え、2年の春から5季連続ベストナインに選出された。当時、明星大学は首都大学リーグの二部ではあったが、巨人スカウト陣の目に止まり、育成5位指名という形で夢の舞台へ望みをつなぐことができたのだ。

育成選手には支度金300万円が支給されるが、年俸はわずか240万円。3年の契約期間で支配下登録に漕ぎ着けなければ自由契約となるため、3年後には人知れず球団を去っていく選手も多い。だが、人一倍の悔しい思いをバネに夢への一歩を踏み出した松原は、当時ジャイアンツの3軍で選手育成を担った川相昌弘監督の指導に応え、そのポテンシャルを次々と開花させる。1年目は50m 5.8秒の俊足を生かし45盗塁を記録。2年目の2018年には支配下登録を勝ち取ると、イースタン・リーグの年間最多安打記録を塗り替える134安打、打率トップの.316をマークし、みるみるうちに頭角を現していった。

そして今シーズンの7月25日、高校時代から苦節8年、プロ一軍昇格を果たした松原は代打で二塁打を放って上々のデビューを果たす。8月18日には2番右翼で初のスタメンに名を連ね、19日にはマルチヒットでプロ初打点。27日のヤクルト戦では2死3塁の場面で戸郷が打たれた打球を素早く捕球し、矢のような送球でライトゴロに仕留めるなど、守備でもビッグプレーで球場をどよめかせた。

とはいえ、ジャイアンツの外野手は不動のセンター丸を筆頭に、パーラ、亀井善行、陽岱鋼、ウィーラー、重信慎之介ら実力者揃い。ファーム上がりの選手を積極起用する原監督に最もハマっているのは松原だが、戦列を離れていたパーラも2軍の実戦に復帰した。選手層の厚い原ジャイアンツで、掴みかけている1軍スタメンの座を死守するのか、それとも明け渡すのか。本当の下剋上は始まったばかりだ。

(つづく)/文・伊勢洋平