Center line 〜センターライン〜
元読売巨人軍・井端弘和氏が、野球にまつわる様々なテーマを、独自の目線で深く語るYouTubeチャンネル『イバTV』を配信中! コラム 〜センターライン〜 では『イバTV』の未公開部分を深堀りし、テーマに沿ってお届けします。
[連載 第23回]
ヒーローたちのラストゲーム(前編)
Posted 2020.12.04

ファンを魅了した、粉骨砕身の火の玉ストレート

11月10日、阪神タイガース vs 読売ジャイアンツの9回表、2万1392人の観衆が詰めかけた甲子園球場は今季一番の大歓声に包まれた。
「ピッチャー藤川」
そのアナウンスが告げられると、場内に流れるのはLINDBERGの「every little thing every precious thing」。メガホンを揺らし大合唱を奏でるファンに迎えられ、40歳の藤川球児は最後のマウンドに向かった。かつてバッテリーを組んだ矢野監督から笑顔でボールを受け取った藤川は、4番坂本、5番中島をストレートで連続三振。6番重信をセカンドフライに詰まらせ、全て直球勝負でラストゲームを締めくくった。

「僕の投げる火の玉ストレートには、チームの思い、そして全国のタイガースファンの熱い思いが全て詰まっています。それは打たれるはずがありません。打者のバットに当たるはずがありません」
自身が引退セレモニーで語ったその“火の玉ストレート”の由来は2005年4月21日のジャイアンツ戦に遡る。直球勝負を待ち望んだ清原和博に対し、藤川はフルカウントからフォークで三振に斬ったものの、消極的ともとれる投球に清原は激怒。当時、球界の内外で物議を醸したが、それを機に勝負に徹することを誓った藤川は、2ヶ月後、甲子園球場で再び対峙した清原を直球勝負で三振。以降、藤川の直球を弾くことのなかった清原は、燃え盛るボールが手元で浮き上がるようなそのストレートを「火の玉」と形容した。

「分かっていても打てない」という感覚を覚えたのはホームランバッターだけではない。その年、打率.323で安打を量産し、12球団トップの得点圏打率を誇った職人・井端弘和は、当時の藤川の速球をこう振り返る。
「同じ150km/h超えのストレートでも質が違うんですよね。真ん中に来たと感じたのは必ずベルトより高い球。膝下に来るストレートがだいたい真ん中くらいのイメージで、そこから落ちるフォークがあるわけだから本当に打つのが難しい。実は、藤川投手がまだ若い頃、たまに投げるカーブをけっこう打ってたんですが、オールスターのとき『もう井端さんにはカーブ投げません』って言われて、それから僕にはまっすぐとフォークだけになってしまった」

松坂世代の中では出遅れていた藤川だったが、2005年にはセットアッパーとしてタイガース最強のリリーフ陣「JFK」の一角を担い、防御率1.36で最優秀中継ぎ賞を受賞。後に「最高の財産」と語るリーグ優勝に貢献した。翌2006年は、まさに藤川球児が球界の主役だった。4月12日に井端に打点を許したのを最後に、シーズン38試合連続無失点の金字塔を打ち立てた藤川は、オールスター史に残るアレックス・カブレラへの予告ストレート勝負や、ドラゴンズの主砲タイロン・ウッズとの数々の名勝負で球場を沸かせた。
「自分の後から連続無失点が続いてたわけだから『俺が止めてやろう』と思ったんだけど、全然止められなかった。僕の中ではカーブ狙いを見抜かれたのが痛かったよね(笑)。あれがチャンスボールだと思ってたから」
そう井端は振り返る。

井端が一番印象に残っているシーンは、2008年のクライマックスシリーズだという。2位タイガースと3位ドラゴンズが1勝1敗で迎えた第3戦は0-0の息詰まる展開で9回へ。守護神の藤川が2死3塁でタイロン・ウッズを迎え、フルカウントになった場面だ。
「まっすぐで行ってウッズにホームラン打たれたんだよね。周りはみんなフォーク行けばいいのにというところで。打たれた本人は納得していたのかどうなのか分からないけど、それでもストレートで行くのが藤川なんだと」

最速158km/hの「速球王」も現役に別れを告げた

奇しくも今シーズンは、藤川と同じく豪腕セットアッパーとして一時代を築いた五十嵐亮太も、古巣でのマウンドを最後に現役を退くこととなった。1997年、敬愛学園からドラフト2位指名を受けてスワローズへ入団した五十嵐は、2年目には早くも中継ぎの戦力に名を連ね、3年目の2000年には154km/hの速球を武器に前半戦だけで11勝。当時の日本最速記録158km/hを追い抜く“伊良部超え”の最有力候補として一躍注目を集める存在となった。

五十嵐もまた相手が強打者であるほど得意のストレートで真っ向勝負を挑み、両軍のファンを釘付けにする投手だった。石井弘寿との左右の速球コンビ「ロケットボーイズ」の記憶は今も野球ファンを熱くさせる。とくにジャイアンツファンの記憶に刻まれるのは、2002年、松井秀喜の50本塁打がかかった場面での投球だろう。23歳の五十嵐は、フォークを要求するキャッチャー米野智人に対し頑なに首を振り続け、松井に全球ストレートで挑んだのだ。打ち取ったファウルフライを米野が落球するという不運もあったが、アウトコース高めの速球を左中間に運んだ松井に軍配は上がった。五十嵐に感謝の気持ちを伝えた松井は、その打席を最後にヤンキースへ移籍した。

「彼も『分かっていても打てない』ストレートでどんどん追い込んで、フォークで決めるといった投球ですよね。速いけど荒れ球もあるのが厄介だった。メジャーからソフトバンクに戻ってきた頃はクイックを覚えたりナックルカーブを覚えたり、年齢とともに制球も良くなって長く活躍できたんだと思いますが、五十嵐にしても藤川にしても、長い野球人生の中で速球主体の投球スタイルを変えてないんですよね。もちろんケガもしたけど、2人とも強い体があってのものなのかなと思うんです」
そう井端は指摘する。

パ・リーグ時代も中村剛也、中田翔、そして大谷翔平らを相手にマウンドに立ちはだかり、ファンを沸かせ続けた五十嵐は、23年の野球人生をリリーバーらしくこう振り返った。
「楽しい事ばかりではなく辛いことのほうが若干多いような気がする。負けそうなときや先が見えないときもあるけれど、どんなときも、とりあえずマウンドに立ち続け、上手くなろうと強く思い続けることが大事だし、それが僕の今後の人生にも生かされると信じています」

(つづく)/文・伊勢洋平