Center line 〜センターライン〜
元読売巨人軍・井端弘和氏が、野球にまつわる様々なテーマを、独自の目線で深く語るYouTubeチャンネル『イバTV』を配信中! コラム 〜センターライン〜 では『イバTV』の未公開部分を深堀りし、テーマに沿ってお届けします。
[連載 第24回]
ヒーローたちのラストゲーム(後編)
Posted 2020.12.18

「絆」とともに大舞台を投げぬいたJAPANのエース

「五十嵐投手は97年ドラフト同期の最期の現役だったからね、オレたちの世代も途切れたかと思うと寂しくなりますよ」
そう語る井端にとって、今年は、堀越高校の現役最後の後輩が球界を去る年でもあった。堀越高校時代は井端と同じく桑原秀範監督の指導を受け、甲子園にこそ出場できなかったが、99年のドラフト5位で近鉄バファローズに入団。のちに日米通算170勝を達成した岩隈久志の引退だ。
「交流戦も含めて対戦はほとんどなかったけど、堀越からプロ入りしたということで入団したときから気にかけてましたね。背が高くてスラッとした体からいいストレートを投げる投手だなと」

近鉄在籍時、150km/h台の伸びのあるストレートを武器に勝ち星を重ねた岩隈は、プロ4年目には15勝2敗、勝率.882で最多勝を獲得した。だが、球界再編問題に揺れ2リーグ制存亡の渦中にあったNPBでは、所属する近鉄がオリックスへ合併され、東北楽天ゴールデンイーグルスが50年ぶりの新球団としてパ・リーグへ参入。オリックスのプロテクトを拒否した岩隈は、当時「寄せ集め」と揶揄された新球団・楽天へ移籍する。さらに2006年には理不尽とも言える2段モーション禁止のルールが導入され、全面的なフォーム修正を余儀なくされた岩隈は、右肘の変形から生じる痛みに悩まされた。勝ち数も2年でわずか6勝止まり。

しかし、右肘の軟骨除去手術を受けた岩隈は、楕円球を使ったリハビリによって決め球となるフォークを体得。卓越した制球力と多彩な変化球、無駄な球を一切投げない「打たせてとる」ピッチングで技巧派投手へ進化した岩隈は、2008年、1985年以来の21勝での最多勝、勝率.840、防御率1.87の投手三冠を達成し、不死鳥のように復活したのだ。

以降の岩隈のハイライトといえば、翌2009年に開催された第2回ワールド・ベースボール・クラシックでの快投や、野村克也監督率いる東北楽天を球団初のクライマックスシリーズ進出へ導いたこと、そして2015年にマリナーズで達成したオリオールズ戦でのノーヒット・ノーランだろう。とくにWBCでは、敗者復活戦にまわって崖っぷちに立たされた侍JAPANを救い、今や伝説となった韓国との決勝戦でも、プレッシャーを物ともせず7回2/3を2失点。大会通して防御率1.35の安定感を発揮し、世界一の立役者となった。霧むせぶペトコ・パークでキューバ打線を手玉に取った頭脳的ピッチングや、97球中74球を低めに集めた決勝戦での見事なコントロールは、岩隈の真骨頂としてファンの脳裏に焼き付いている。

2008年の復活を機に、岩隈はグラブに「絆」の一文字を縫い付けた。それは自分を待ってくれたチームメイトやファン、支えてくれた家族のために投げるという誓い。
「最後の年に投げられなかったのは残念だったけれど、メジャーでも15勝、16勝を挙げて、大成功の野球人生だと思いますよ。野球を通して社会貢献していることもよく聞きますし、これからも野球に携わってほしいですね」
そう井端はエールを送った。

カープ一筋19年、ナインとファンに愛された兄貴分

捕手では、カープ一筋19年、広島の精神的支柱ともいえる石原慶幸がグラウンドに別れを告げた。岐阜商業時代に高校通算57本塁打を記録し、東北福祉大から2001年のドラフト4位で広島東洋カープへ。2年目には早くも頭角を現したした石原だが、入団後2012年までの10年間はBクラス。2007年、カープは12球団の中で最も優勝から遠のいているチームとなり、投打の中心である黒田博樹がNYヤンキースへ、新井貴浩が阪神に移籍する。昨今こそマツダ・スタジアムは老若男女のファンで真っ赤に染められるが、空席の目立つ広島市民球場時代からマスクをかぶり続け、長らく苦難にあえぐチームを支えてきたのが石原慶幸だった。

「とにかくしつこかったですよ(笑)。同じところを何度も攻めてきたり、インサイドをよく使う印象でしたが、使わないときは徹底して使わないとかね。打者としては、あまり打っているイメージはなかったけれど、右方向へのパンチ力があった。オールスターのとき、落合さんが石原に『お前はバッティング良いんだから』と教えていたのを覚えています」
現役時代、対戦を重ねてきた井端は、石原の印象をそう振り返る。
「よくバッターを見てるなと感じたし、駆け引きに乗ってくれるキャッチャーでした。僕が現役の頃は、矢野さんも谷繁さんも、阿部慎之助も、僕の読みや仕掛けに対して駆け引きをしてくるキャッチャーがほとんどだった。僕の中で石原捕手は、駆け引きのできる最後のキャッチャーだったと思うんです」

2009年にキャプテンに任命され、2010年には前田健太とともに最優秀バッテリー賞を受賞した石原だったが、FA権を取得してもカープ一筋を貫いた。チームを強くするためには自分のリードで投手を少しでもラクにしなくては。責任感の強い石原は、厳しいチーム事情を抱えながら扇の要に座り続けた。だからこそ、投手や若手選手が石原に寄せる信頼は特別なものがあった。

2013年、カープは16年ぶりにAクラス入りを果たし、翌年には黒田、新井が広島に復帰。黒田、野村祐輔、そしてクリス・ジョンソンの頼れる女房役として安定感抜群のリードを演じた石原は、カープ26年ぶりの優勝の立役者となる。2016年9月10日の東京ドーム、優勝の瞬間、守護神・中崎翔太を抱え上げ、喜びを爆発させた37歳のベテランの姿は、カープファンのみならず、多くの野球ファンの胸を打った。

井端曰く、広島バッテリーの投球はつねに「逃げない攻め」だったという。石原の引退後も、會澤翼や背番号31を新たに背負う坂倉将吾にその魂は継承されていくだろう。「引退後のことは全く決まっていない」と引退会見で語った石原だが、ファンは石原が指導者としてスタジアムに帰ってくる姿を心待ちにしている。そして、今年引退した同世代の選手たちと、再び球界を熱くさせてくれることを。

(了)/文・伊勢洋平