Center line 〜センターライン〜
元読売巨人軍・井端弘和氏が、野球にまつわる様々なテーマを、独自の目線で深く語るYouTubeチャンネル『イバTV』を配信中! コラム 〜センターライン〜 では『イバTV』の未公開部分を深堀りし、テーマに沿ってお届けします。
[連載 第29回]
感謝と希望を白球に込めて(前編)
Posted 2021.03.26

歴史の中で、連綿と受け継がれる「感謝」の思い

3月19日、甲子園球場に2年ぶりの球児たちの打球音が帰ってきた。昨年は春夏ともに新型コロナウイルスの感染拡大を受けて開催中止。挑戦を断ち切られたまま卒業した3年生を見送り、困難を乗り越えながら練習を続けた高校生たちは、どんな思いを背負って甲子園の舞台に立っただろうか。開会セレモニーで登壇した仙台育英の島貫丞主将は、まっすぐ前を見据えて、こう宣誓した。

「答えのない悲しみを受け入れることは、苦しくて辛いことでした。しかし、同時に多くのことを学びました。当たり前だと思う日常は、誰かの努力や協力で成り立っているということです。感謝。ありがとうございます。これは、出場校すべての選手、全国の高校球児の思いです。感動。喜びを分かち合える仲間とともに、甲子園で野球ができることに感動しています。希望。失った過去を未来に求めて希望を語り、実現する世の中に」

「当たり前だと思う日常は、誰かの努力や協力で成り立っている」
その野球ができる日常への感謝、仲間や周囲への感謝は、かつて多くの人々の命を奪った阪神・淡路大震災や東日本大震災、有珠山噴火や西日本豪雨といった災害を乗り越えた球児たちが、背負い続け、発信してきた思いでもある。ウイルス感染リスクは100年を超える高校野球の歴史においても初めて直面する困難だが、状況はかつて開催が危ぶまれた災害の年にも似ている。

1995年、第67回の春のセンバツは、阪神・淡路大震災の2ヶ月後、甲子園球場のある西宮市にも震災の爪痕が生々しく残る中で開催された。犠牲者は6400人超。多くの家屋が倒壊する中、かろうじて球場は修復可能な状態だったが、交通網も寸断された状態で、花火大会やイベントは軒並み中止となった。育英、報徳学園、神港学園といった兵庫の出場校は、校舎やグラウンドが被災し、家を失った部員もいた。
「被災者の気持ちを考えたら、今は野球をするときではない」
当時の監督たちも、大会開催には強い抵抗を感じたという。今回のコロナ渦においても「野球だけ特別でいいのか」「野球なんかしてる場合か」といった声が上がったが、当時もまた、それと同じ言葉が練習中の選手たちに浴びせられ、メディアや国会でも開催の賛否が取り沙汰されていた。

そうした中、主催の高野連と毎日新聞社は「復興・勇気・希望」といったスローガンを掲げて開催準備を進め、県や西宮市もまた「全国からの支援への恩返し」として開催に呼応。復興工事の妨げにならないよう選手や応援団のバス乗り入れを禁じ、ブラスバンドの鳴り物は自粛を要請、ナイターを避けるために1日3試合に限定するなど被災者への配慮を重ね、実現に漕ぎ着けたのだ。

今ありて、未来も扉を開く

「私たちはいま、憧れの甲子園に立っています。地元のみなさんの温かい理解と、多くの方々の努力で開催されることに、感謝の気持でいっぱいです。私たちは全力でプレーし、夢と希望と感動を与え、復興の勇気づけとなる試合をすることを誓います」
埼玉・鷺宮高校の長谷川大主将の選手宣誓で開幕した95年春のセンバツは、地元兵庫の3校が全て初戦を突破するといった盛り上がりを見せ、震災直後の被災地に大きな一体感を与える大会となった。神港学園からは、のちにベイスターズやジャイアンツで活躍した鶴岡一成がプロへ入団。他にも、肘の副靭帯を損傷しながら神港学園を13回サヨナラで退けた今治西の藤井秀悟、のちにドラゴンズで活躍する森野将彦(東海大相模)、荒木雅博(熊本工)、今なお現役のスラッガー福留孝介(PL学園)らが、この“震災甲子園”の舞台に立ち、観る者の心を熱くさせた。

「野球に携わる人々にとって、甲子園はかけがえのない場所」だと井端弘和は語る。井端が最初に甲子園の土を踏んだのは、2年生で出場した第64回春のセンバツ。
「当時は、生まれてから一番というくらい緊張したんじゃないですかね。試合が始まるとそうでもないんですが、とくに試合が始まる前、控室に入ったときはヤバかったですね、胃が痛むくらいの緊張で」
64回大会はラッキーゾーンが廃止された最初の大会。グラウンドに立った井端にとって最初の甲子園は「めちゃくちゃ広いな」という印象だったという。そして春のセンバツで最も印象的だったのは、その広い甲子園を意に介さず本塁打を放つ松井秀喜の姿だった。初戦を勝ち上がった堀越高校は、2回戦で「超高校級」と騒がれた松井の星稜高校と対戦。4-0で敗戦している。

「松井さんのホームランは金属バットなのに金属音がしなかった。なんかボコッという音がしたので、芯じゃなかったんだと。芯じゃなくてあれだけ越えていくわけだから、同じ甲子園に出る選手でも次元が違うというか、あのホームランは本当に衝撃でした。のちにプロの世界で対戦したときは『ここで松井さんと一緒に試合しているということは、自分もあれから頑張ったんだな』と。そう思った時期もありましたね」

甲子園は、多くの人々の理解とサポートによって開催され、さまざまな人々へ、感謝の気持を背負った球児たちが挑む、特別な舞台。だからこそ甲子園でしか起こり得ない数多くのドラマが生まれ、球場やテレビの前で熱戦を見守る人々へ、感動や勇気、そして希望が伝播する。

高校野球の大ファンだった故・阿久悠氏が1993年に発表した大会歌『今ありて』の歌詞は、奇しくもその後の苦難を予見していたかのように「今ありて 未来も扉を開く 今ありて 時代も連なり始める」と綴られる。閉塞感が人々の心を覆う困難の時代、2年分の思いを込めて開かれた扉の先には、どんな未来が連なるだろうか。

(つづく)/文・伊勢洋平