Center line 〜センターライン〜
元読売巨人軍・井端弘和氏が、野球にまつわる様々なテーマを、独自の目線で深く語るYouTubeチャンネル『イバTV』を配信中! コラム 〜センターライン〜 では『イバTV』の未公開部分を深堀りし、テーマに沿ってお届けします。
[連載 第39回]
甲子園優勝投手 〜世代のトップとして闘い抜いた野球人生〜(前編)
Posted 2021.10.29

球界に計り知れないほど貢献した松坂と斎藤

キャッチャーが後ろへ吹っ飛んだり、ミットが突き破られたりする剛速球。そんな「マンガが現実になるような球」を投げたい ―― 2002年、東北高校のエースとして甲子園に出場し、高校左腕史上初となる150km/hを記録した高井雄平の速球は、そうした少年のような夢から実現したという(※1)。一方で、プロ入り後の雄平のキャリアは、マンガの筋書きにもないような波乱万丈。ドラフト1位でヤクルト入団するも制球難から野手へ転向し、藤浪晋太郎や大谷翔平からホームランを放ったり、2015年にはサヨナラ打で優勝を決めるなど「打」の要として復活を遂げ、フルスイングでファンを魅了した。

事実は小説より奇なりというが、高校野球にはフィクションを超える幾多の伝説が存在する。80年代には高校3年間で春夏5度の甲子園出場を果たし、2度も頂点に立ったPL学園のKK伝説。90年代は“打倒松坂”を掲げる幾多の強豪校をねじ伏せた横浜高校・松坂大輔の怪物伝説。2000年代では、大会3連覇を狙う駒大苫小牧の田中将大と早稲田実業・斎藤佑樹の引き分け再試合の死闘が語り草となった。奇しくも今シーズンは松坂大輔と斎藤佑樹といった2人の甲子園優勝投手が現役生活に別れを告げたが、その野球人生を井端弘和はどう見ているのか。

「プロに入ってからの2人は対照的で、最後は2人ともケガに泣かされた野球人生でしたが、2人はその中でよく闘い抜いたと思います。当たり前だけど甲子園優勝投手というのは、その大会に1人しかいない。ましてドラフト1位ならその世代のトップとしてプロ入りするわけで、松坂投手も斎藤投手も、他の選手より大きなプレッシャーを抱えながら『自分が活躍しなければ』という自覚を人一倍持っていたと思うんです。よく引退する選手が『野球にお世話になった分、これからは恩返しを』と言いますが、社会現象になるほど球界を盛り上げてくれたんだから、もう十分に野球界に貢献していますよ」

最高の1球は、松坂のストレートだった

松坂の「怪物伝説」は、甲子園に登場する前年、97年の明治神宮野球大会から始まっていた。4番エースとして決勝まで3連投。すでに150km/hに達していた速球で国士舘や沖縄水産から三振の山を築き、明徳義塾の馬淵史郎監督は「スピンが違う。化けもんや」と松坂を評した。速球派の高校生投手は得てして制球に苦しむものだが、2年生の夏の地方大会、痛恨のサヨナラ暴投で涙をのんだ松坂は、恩師・小倉清一郎部長の指導でホームベースの隅にボールを置き、そのボールに当たるまで何度も練習を繰り返したという。力むと身体が開いてしまうクセはその年の秋に克服し、春の選抜のマウンドを踏むころにはいつでもストライクを取れる自信を持っていた。

98年夏、延長17回の死闘を演じたPL学園の上重聡は、春の選抜で初めて松坂と対戦したときの驚きをこう語っている。
「1番打者の田中一徳が、セカンドゴロに倒れるんですが、信じられないものでも見たような顔をしてベンチに戻ってくるんです。バッターはふつう凡退してもチームの士気を高めるために『いける、いける』というのですが、後続も含め、それすらなかった」(※2)
同じく春の選抜で松坂と対戦した東福岡の村田修一(現ジャイアンツコーチ)が「ピッチャーでは松坂に勝てない」と、打者でトップを目指すことにしたのも有名な逸話だ。

同世代のライバルたちに畏怖の念さえ与えた松坂は、プロ入り後も1年目から3年連続最多勝。日本球界の絶対的エースとしてWBCでも活躍し、2006年には当時最高額となる60億円の移籍金でボストン・レッドソックスへ入団。スピンのかかった伸び上がるストレートや切れ味鋭いスライダーはメジャーの強打者をもキリキリ舞いさせた。

2004年、西武ライオンズと日本一を争った井端は、この日本シリーズ第2戦で三振を喫した松坂の直球を生涯ナンバーワンの球だと振り返る。
「1、2打席とヒットを打って、調子に乗って向かった3打席目。真っすぐだけをイチニのサンで打ってやろう思っていたところにストレートが来た。心の中で『もらった!』と思いましたよ。それがバットに当たらず空振りさせられた。そんなことは松坂だけです」
この試合は井端の宝刀・右打ちが冴え、7回には3本目となる安打で出塁。続く立浪和義が同点3ランを放ち、全盛期の松坂を相手にドラゴンズが逆転勝利を収めるという日本シリーズ屈指の激闘でもあった。

野球選手なら「燃え尽きて終わる」のが本望

甲子園の春夏連覇に始まり、日米通算170勝、WBCでは2度のMVP、さらにはワールドシリーズ優勝といった眩しすぎるほどの軌跡を残す松坂だが、2009年以降は故障に苦しんだ。NPB復帰後の2018年には6勝を挙げてカムバック賞に輝くも、ここ数年は右手のしびれや首の痛みが進行し、手術やリハビリも叶わず満身創痍の身での引退となった。
「もっと前に引退できなかったのか?」
長期間に渡って戦線離脱が続いただけに、世間からそうした批判的な声が上がるのも無理からぬところかもしれない。

だが、そんなボロボロになりながらも現役を続けた松坂の姿を見て、井端はこう語る。
「正直、僕は羨ましいと思ったんです。僕はケガが要因でもなく翌年の契約の話もある中で引退した。それはそれでひとつの生き方だと思っています。ただ、本来なら松坂選手のように現役を貫き通したいという思いもあった。『燃え尽きて終わりたい』というのか、一野球選手としては、みんな『どうあがいてもダメだ、だからやめる』というところまで野球を貫き通したいと思うんじゃないか。そう思っても、なかなかそうはいかないのが人生ですし、そういう意味では、松坂選手は他の選手よりも後悔の少ない、最高の野球人生じゃないかと思うんですよ」

引退試合で投じた松坂大輔の5球は、全てストレート。球速は118km/hが精一杯だったが、それでも変化球でカウントを取りに行くことなく、かつて数々の名勝負を繰り広げた直球にこだわった。

「ドラゴンボールの孫悟空のようなヒーローになりたかった」
「野球の世界の中でみんなに喜んでもらいたいと思い続けてきた」

そんな若き日に抱いた夢が、最後まで貫かれたマウンドだった。

(つづく)/文・伊勢洋平

※1 『心が熱くなる! 高校野球100の言葉』田尻賢誉/著(三笠書房)より
※2 『1998年横浜高校 松坂大輔という旋風』楊順行/著(ベースボール・マガジン社)より