Center line 〜センターライン〜
元読売巨人軍・井端弘和氏が、野球にまつわる様々なテーマを、独自の目線で深く語るYouTubeチャンネル『イバTV』を配信中! コラム 〜センターライン〜 では『イバTV』の未公開部分を深堀りし、テーマに沿ってお届けします。
[連載 第40回]
甲子園優勝投手 〜世代のトップとして闘い抜いた野球人生〜(後編)
Posted 2021.11.12

最も輝かしいアマチュア時代を経験したエース

プロ入り後MLBでも活躍した松坂大輔とは対象的だったが、斎藤佑樹もまた18歳の当時は“ハンカチ王子”の愛称で社会現象を巻き起こした甲子園の優勝投手。その引退は、やはりケガに悩まされる中で決断されたものであり、最後まで自身の野球を貫き通しての引退だった。
「早実のエースとして東京の野球をあれだけ盛り上げてくれた斎藤選手には、感謝しかない」
と井端は語る。井端の母校・堀越高校は、2012年の地区割り変更まで西東京地区。早稲田実業とは地区予選のライバルだった。それだけに早稲田実業が引き分け再試合の死闘の末、田中将大率いる駒大苫小牧の3連覇を阻止した伝説の第88回大会は、井端の気持ちを大いに高ぶらせてくれたという。

甲子園のヒーローとなった斎藤は早稲田大学へ進学し、2007年の大学選手権でも優勝して1年生ながらMVPを獲得。さらに敵地開催となった日米大学野球では日本代表を優勝に導くなど大学野球でも華々しく活躍し、斎藤が登板する試合は例年の4倍以上もの観客が押し寄せることとなる。最終学年となった2010年の秋季リーグ戦では、50年ぶりとなった早慶優勝決定戦で先発。3万6千人の観客が神宮球場を埋め尽くす中、8回までノーヒットの好投を見せて試合を制し、これ以上ない形で有終の美を飾った。

かつての球は戻らない、そう分かっていても……

だが、プロ入り後は、2年目の肩の故障を機に1軍のマウンドから遠ざかり、捲土重来を期すも3年目〜11年目の勝利数はわずか4勝。鎌ヶ谷のファームで「今年こそは」と努力を重ね、昨年は右肘靭帯を断裂してもなお現役を続行したが、戦えるだけの球は戻らなかった。

斎藤にせよ、日本球界復帰後の松坂にせよ、毎年多くの選手が戦力外通告を受け、新陳代謝の図られるプロの世界において、1軍での実績がないまま何年も契約を続けられるのは特別なことだ。甲子園優勝投手である彼らは、どのような思いで現役を続けていたのだろうか。のちに引退を決断することとなるプロ11年目、斎藤はテレビ番組の取材に対して、自身が現役を続ける理由を次のように語っている。
「僕はただ野球をしたいだけ。『自分から引退しろ』って言われるかもしれないけど、それは自分の気持ちに対して矛盾しているなって。野球やりたいのに、自分から引退しますって、おかしいじゃないですか」

松坂大輔は、引退試合の日の記者会見で「自分で自分を褒めるとするなら」という問いに対し、あえて「諦めの悪さを褒めてやりたい」と答えた。後半は思うようにいかないことのほうが多かった野球人生。プロ野球選手にとってケガをしているときや結果が出ない時期ほど苦しいときはない。だが「どんなに落ち込んでも、最後にはやっぱり野球が好きだ。好きな野球をまだまだ続けたい」。そうした思いが支えになっていた。

あの桑田真澄がメジャーで野球を続けた理由

苦しくても野球を続けたい、そして栄光からどん底の挫折を味わってもなお、野球が好きだという境地。それを感じたのは、少年時代の松坂大輔が最も憧れた背番号18も例外ではない。躍動感あふれる美しい投球フォーム、抜群のフィールディング、甲子園通算6本塁打の打撃力でPL学園を2度甲子園の頂点に導いた伝説の優勝投手。そして「夏の甲子園の優勝投手は大成しない」という当時のジンクスを覆し、プロ2年目の1987年には2.17の最優秀防御率タイトルと沢村賞を獲得して15勝。以降6年連続で2桁勝利を挙げた桑田真澄だ。

プロ入り後、ジャイアンツのエースとして君臨してきた桑田は、1995年5月24日のタイガース戦でファウルボールをダイビング補球しにいった際、右肘靭帯を断裂。左手の腱を移植する手術を行った。2年におよぶリハビリを経て、683日ぶりの先発勝利を果たし、翌98年には16勝5敗、2002年には古武術による身体操法を取り入れて12勝6敗の成績を収めたものの、肘をかばった影響から腰を故障。さらには足首や膝へとケガの影響は連鎖し、2003年以降の4年間は、毎年のように引退説が囁かれるようになる。

だが、2006年シーズンをわずか1勝、3度の登板で終えた桑田は、その状態からピッツバーグ・パイレーツとマイナー契約を結んだのだ。もう十分やりきったと思える38歳、それでもなおMLB挑戦を始めた桑田は、その決断の理由をのちに自著の中でこう語っている。
「ある日、気が付いたのです。自分はエースでいることが好きなのではなく、野球が好きなのだと。成績が伸びなくても、自分が努力していることが好きだった(中略)。僕は心から野球が好きだ。だから、まだ野球をやりたい」(※)

根っからの野球小僧に“引き際”などない

「僕が対戦したのは桑田さんの手術明けの頃でしたが、投げるタイミングを少しずつ変えてきて、それによく惑わされたのを覚えています。ピッチングはもちろん、あれほど守備がいい、そしてバッティングも上手いことからも、根っからの野球小僧なんだということが窺えますよね」
そう井端は言う。
「本当に好きだから、そんな簡単には辞めない。あれだけ輝かしい実績を残した選手が、最後まで現役にこだわるのは、そういうところじゃないですか」

渡米後、桑田はキャンプ終盤に球審と激突して足首の靭帯を断裂するという不運に見舞われながらも、最下層の1A(ルーキーリーグ)から再び這い上がり、ついに2007年6月10日、NYヤンキースとの対戦でメジャー初登板を実現。39歳にしてヤンキースタジアムでデビューを飾り、レインボーと讃えられたカーブを武器にデレク・ジーターやアレックス・ロドリゲス、そして巨人軍でともに戦った松井秀喜とも対戦した。甲子園のヒーローが、20年越しの夢を果たした瞬間だった。

3,600校を超える出場校の中でたった1人しかいない甲子園優勝投手。そのブランドがすぐ通用するほどプロは甘くなく、プロ入り後に早くから活躍できる投手はむしろ一握りだ。昨今では高卒で西武ライオンズに入団した髙橋光成(2013年に前橋育英で優勝)や今井達也(2016年に作新学院で優勝)が1軍のマウンドに定着しているが、2014年に東海大相模を優勝に導き、中日ドラゴンズに入団した小笠原慎之介は、左肘手術の影響から今まさに試練のときを迎えている。

そして最もファンをやきもきさせているのは、大谷翔平と並んで世代を代表するスターでありながら制球難に苦しむ阪神タイガースの藤浪晋太郎かもしれない。だが、春夏連覇と松坂以来の高校3冠を達成し、プロ入団初年度から3年連続で2桁勝利を挙げた実力は誰もが認める“怪物級”。決して大きな故障に苦しんでいるわけでもない。何より27歳。桑田真澄や松坂大輔の“諦めの悪い”野球人生に比べたら、まだまだこれからだ。

(了)/文・伊勢洋平

※『試練が人を磨く 桑田真澄という生き方』桑田真澄/著(扶桑社)より