Center line 〜センターライン〜
元読売巨人軍・井端弘和氏が、野球にまつわる様々なテーマを、独自の目線で深く語るYouTubeチャンネル『イバTV』を配信中! コラム 〜センターライン〜 では『イバTV』の未公開部分を深堀りし、テーマに沿ってお届けします。
[連載 第41回]
不可能を可能にする、言葉のマジック(前編)
Posted 2021.12.03

MLBにかつてない衝撃を与えた大谷の挑戦

「ア・リーグのMVPだとか、そうした枠組みの価値ではない。今年のペナントレースにおける価値でもなければ、チームにどれだけの価値があるかという話でもない。大谷翔平は、アメリカの野球史におけるMVPだ」
まだペナントレースも中盤という頃、すでにアメリカのTVショーでは、大谷翔平の功績に対してそれほどの議論が交わされていた。

シーズン終盤、日本国内ではホームラン王争いで劣勢であることや、エンゼルスの勝率が低いことなど、ある意味、大谷がMVPを獲れなかったときの予防線もしばしば報じられていたが、全米各地では早々に「MVPは大谷で決まりだろう」という声が多くを占めていたのが現実だ。ボストンのベテラン記者ゴードン・イーズは「大谷はすでにベーブ・ルースを超えている」と分析し、ニューヨーク・タイムスは地元でもない大谷を異例の全面記事で特集。オールスターゲームでア・リーグを率いたレイズの知将ケビン・キャッシュは大谷を「新型コロナウイルスの痛手からベースボールが立ち直ったことに大きく貢献した立役者」と評した。

結果はブルージェイズの担当記者も含め満票のMVP。日本以上に地元球団への愛着の深いアメリカの野球ファンだが、MLBの1試合あたりの平均観客動員数はここ10年減少傾向にあり、現在は3万人を割り込んでNPBを下回るまでになっている。もちろんゲレーロJr.やマーカス・セミエンの記録も例年ならMVPに値するだろうが、大谷の“二刀流”の成功は、野球に無関心だった人々でさえ振り向かせ、スタジアムに歓喜を取り戻すほどの別次元のもだった。

二刀流の基礎は、戦線離脱しているときに作られた

大谷翔平の二刀流の礎は、花巻東高時代にあったとされる。発端となる出来事は2011年。高校2年の夏、県大会前の練習試合で訴えた左足の痛みだ。大谷は痛み止めを打ちながら外野手として県大会に出場。花巻東は甲子園に出場し、大谷は初戦の帝京高校戦でマウンドに立つが、本来の力を発揮できずに敗退した。当初、肉離れと思われていた症状は股関節の骨端線損傷と判明。花巻東の佐々木洋監督は、投げ込みのできなくなった大谷を第2寮に移して静養させ、大谷はケガが治るまで打撃中心の練習を余儀なくされることとなる。

だが、この秋から春にかけてこそ、大谷のバッティング技術が飛躍的に向上した時期でもあった。それまで大谷=投手としての意識しかなかったという佐々木監督は「ピッチャーとして三年間、順当に行っていれば『バッター・大谷翔平はあそこまでのものになっていなかったかもしれない」と後に語っている(※1)。高校入学当初60kg台しかなかった大谷の体重は、十分な睡眠と食事によって90kg台まで増え、療養明けにはいとも簡単にホームランを飛ばせるほどの飛距離を出せるようになっていたという。

状態が悪いときこそ大切な「ひらめくきっかけ」

もっとも大谷がバッターに急成長したのは、単に寝て太ってバットを振っていたからではない。当時の花巻東のキャプテン・大澤永貴(現トヨタ自動車東日本)は「貪欲なまでの知識力と、その知識を生かした修正力こそ大谷翔平のすごさ」と語る(※2)。全寮制の花巻東では、当時、学生のパソコンの持ち込みを許可しており、大谷はYouTubeなどのメジャー選手の動画をコレクションし、ホームランなどのシーンを繰り返し見て、身体の動かし方を研究するのが日課だった。

プロ入り2年目の大谷が、ダルビッシュ有の動画を見たことをきっかけにランナー無しでもセットポジションで投げるようになり、初年度の3勝から11勝へ成績を伸ばしたこともよく知られている。
「変わるときは、一瞬で変わる。地道な努力も必要だけど、ひらめくきっかけがほしい。きっかけがあれば技術も向上するんです」
戦列を離れているときはもちろん、何かを改善しようと思うとき、大谷は移動中でさえiPadやスマートフォンで他の選手のフォームを見てイメトレし、向上のきっかけを探っているのだ。

「悪いときに練習したら悪いフォームに固まってしまう可能性もあるわけだから、無駄に練習しないほうがいい」
アプローチは異なるが、井端弘和もまた、結果が伴わないときこそ原因を探ることに注力したという。
「僕の場合は、他人の動画より自分の動画。調子が悪いときは、必ず身体のどこかがいいときと違う反応をしがちなので、僕はスローモーションでコマ送りしながら自分の打撃フォームをチェックする。すると『いつもは手が先に来てから回ってるのに行きながら肩が回ってるな』とか、違う動きをしている瞬間がパッと見つかったりするんです。映像で分かるというのは、相当悪いってことですけどね。結果が出ないと焦るし、練習しようと思うものだけど、原因の究明に努めたほうが手っ取り早かった」

大谷が鮮明に覚えている、佐々木監督の言葉

のちに栗山英樹・元日ハム監督が提案した二刀流は、大谷が日ハム入団を決断する大きな道標となっていくわけだが、大谷翔平という名が日本全国に最初に知れ渡ったのは、もうひとつの「不可能」と言われていた偉業、高校生初の球速160km/hを達成したことだ。高校入学直後の大谷の球速は135km/h程度。だが、リーチの長さや関節の可動域の広さを見た佐々木洋監督は「いずれ160km出る」と大谷に告げた。

もちろん花巻東の先輩、菊池雄星が高校在学中に20km/hの球速アップに成功した実績もあってのことだが、佐々木監督は「選手を育てるには言葉こそ大事」という信念を持ち、つねにマインドセットを重要視する指導者でもある。自身が影響を受けた歴史上の人物や出会った人々の言葉を伝えるべく、学生の目に付く場所に、さまざまな言葉を貼っていたという。その中でも大谷が印象強く覚えているのが「先入観は可能を不可能にする」という言葉だった(※3)。

高校生のうちから160km/hなど投げられるわけがない。プロの世界でエースでホームランバッターなど無理な話だ。決して野球だけの話ではないが、そんな先入観こそが実は可能性を阻害しているのだろう。大谷自身、最初は無理だと思っていた160km/hだったが、それを目標として書き込み、監督やトレーナーからずっと「いける」と言われているうちに、おのずと出せる気になっていったという。

(つづく)/文・伊勢洋平

※1 ※3 『道ひらく、海わたる 大谷翔平の素顔』佐々木亨/著(扶桑社)より
※2 『証言 大谷翔平』張本勲、野村克也、江本孟紀ほか/著(宝島新書)より