Center line 〜センターライン〜
元読売巨人軍・井端弘和氏が、野球にまつわる様々なテーマを、独自の目線で深く語るYouTubeチャンネル『イバTV』を配信中! コラム 〜センターライン〜 では『イバTV』の未公開部分を深堀りし、テーマに沿ってお届けします。
[連載 第53回]
甲子園に響いた、まっすぐな心の球音(前編)
Posted 2022.09.09

投手陣が持てる力を発揮した仙台育英

時おり額の汗を袖で拭うも、落ち着いた表情は初回から変わらない。東北勢初の甲子園優勝がかかる大一番、先発を任された仙台育英の斎藤蓉は集中力を全く切らさなかった。腕の振りも衰えることなく、7回を3者凡退で退けたところでちょうど100球。下関国際打線を3安打1失点に抑え、7点差という最高の形でマウンドを後続に譲った。

「仙台育英はピッチャーがみな良かった。僕は甲子園を観戦するとき、自分だったらどう攻略するかという視点で投手を見てるのですが、とくに斎藤蓉君は小気味良いピッチングをするし難しいと思いましたよ」
堀越高校時代に自身も甲子園出場を経験している井端弘和は、斎藤のピッチングをそう評価する。
「彼はさほど大きな体格ではないけど、真っすぐも変化球もフォームがほぼ変わらないし、体が大きくないから角度のない球になりますよね。僕は角度のあるピッチャーは得意なんですが、角度のないストレートがあの球威でブワッと来ると差し込まれやすいんです」

勝敗のポイントとなったのは、打順が一回りした4回・5回の攻防だろう。4回表、下関国際はじっくり見て食らいつくバッティングから早打ちに切り替えて勝負に出たが、仙台育英バッテリーにかわされ三者凡退。その裏の仙台育英は、2番の山田脩也がこの試合初の長打で2塁へ達し、森蔵人の送りバントで3塁へ。続く4番の斎藤陽が、相手投手・古賀のカウントを取りに来たスライダーを見事に振り抜き先制点を奪った。対して5回表の下関国際は、四球とシングルヒットでノーアウト1・2塁のチャンスを作ったが、バント失敗でランナーを進められず、続く打者は内野ゴロゲッツー。らしくない攻撃で得点することができなかった。ここで流れを得た仙台育英は、斎藤蓉の好投の間にじわりと得点を重ね、7回に飛び出した岩崎生弥の満塁弾で試合を決定づけた。

理論と情熱で選手のポテンシャルを引き出した須江監督

「身の丈にあった野球をする」というのが、今年の仙台育英・須江航監督の信条。とはいえ「トータルで考えても非常に能力の高いチームだった」と井端は言う。
「あの投手陣が揃うということは、それだけ能力の高い子たちが集まって競っているんだろうなと。確かにスーパースターはいないかもしれないけどスターはたくさんいるチーム。これからの伸びしろを考えたら、今後、大学行って、プロでの活躍もイメージできるような選手たちが揃っていたと思います」

情報科の教師でもある須江監督は、データを重視したロジカルな育成方法や戦術に定評のある一方、あの「青春ってすごく密」という優勝インタビューでの一節が多くの共感を呼んだように、選手や学生の気持ちに寄り添いながら共に戦う“熱い男”としても知られる。紅白戦を多く組むのも、選手のセレクトのためデータを十分に収集する一方、より多くの選手に機会を与えた。甲子園に入って18人全員を起用したのも「一番コロナに苦しんだ世代だからこそ」という思いからだ。

決勝で満塁ホームランを放った岩崎は、中学時代、山田陽翔(近江)らとともに日本代表に選出されたほどの選手だが、昨年6月に運動誘発性ぜんそくを発症。2ヶ月間動くことさえままならず、まともな練習を再開できたのは、それから1年経った今年6月だった。県大会にも間に合う状態ではない。だが、須江監督や仲間の温かい励ましを受けた岩崎は、代打で活路を見出すべく、必死にここ一番での打撃力を磨いたという。紅白戦の本塁打でその成果を見せた岩崎は、甲子園のベンチ入りを果たし、頼れる代打として奮闘。決勝では背番号14ながらついにスタメンに名を連ねた。

そして1死満塁の場面で訪れた7回の打席、須江監督が岩崎に伝えた指示に迷いはなかった。
「スクイズじゃないぞ。自信を持って振っていけ」
下関国際のリリーフエース・仲井慎の気迫のストレートをフルスイングした岩崎の打球はレフトスタンドへと吸い込まれ、ダイヤモンドを一周した岩崎はベンチで出迎えた須江監督と歓喜の抱擁を交わした。優勝旗を東北へ手繰り寄せたグランドスラムは、決して予期せぬ偶然ではなかった。

コロナ世代のチーム力を高めた“心の密”

仙台育英は過去、春夏合わせて3度決勝に進出したが、その度に打線が沈黙したり、あと一歩のところで競り負けたりと、勝負強さを発揮できずにいた。須江監督自身、学生コーチとしてチームを支えた2001年春の決勝では、名将・木内幸男監督率いる常総学院のスクイズに振り回され、終盤に追いすがるも6-7の惜敗。決勝当日の試合前は、まったく記憶にないほど緊張していたという。

だが、コロナ世代と言われる今年の選手たちは違った。仲間と集い、体を動かしたり声を掛け合ったり、笑い合う。そうした高校生なら当たり前の時間が入学時から否定され、ようやく仲良くなれても、下校中、仲間と喋っているだけで学校にクレームが来るような3年間だ。観客が戻った3年目の大会も、選手たちは感染対策が最優先。甲子園に出場しても、まるで隔離者のように滞在先のホテルに籠もらざるを得なかった。そんな環境だったからこそ、プレッシャーよりも大舞台で試合のできる喜びのほうが勝ったに違いない。

決勝で破れはしたが、下関国際の快進撃もまた聖地・甲子園に強烈な印象を残した。もともと部員も少なく、不祥事でろくに活動していなかった野球部を12年で甲子園に導き、17年目に決勝の舞台へ勝ち上がった坂原秀尚監督は、徹底した生活指導と厳しい練習で部員から「鬼」と呼ばれたほど。教員免許がなくとも「無給でいいから監督をさせてほしい」と校長に直訴し、技師や附属幼稚園のバス運転手をしながら野球部を立て直したというドラマさながらの逸話は、高校野球ファンの間でも語り草となっている。

その下関国際も現在は3年生だけで29名。コロナ渦でさまざまな制限を受けた高校生活を、ひとつ屋根の下の寮生活で結束して乗り越えた。決勝前日の練習の後には、ベンチ外の3年生たちが甲子園の土を踏みしめ、ダッシュを繰り返す姿があった。
「彼らにも甲子園を走らせてあげたい」
この3年間、野球を続けてきた選手に対する坂原監督の感謝と敬意の念がそこにある。
「甲子園があったから苦しい時期も乗り越えられた」
そう口々に語る球児たちに敬意の眼差しを向け、甲子園に導いた指導者たち。今夏の甲子園は、そうした“心の密”が確かに伝わる大会でもあった。

(つづく)/文・伊勢洋平