Center line 〜センターライン〜
元読売巨人軍・井端弘和氏が、野球にまつわる様々なテーマを、独自の目線で深く語るYouTubeチャンネル『イバTV』を配信中! コラム 〜センターライン〜 では『イバTV』の未公開部分を深堀りし、テーマに沿ってお届けします。
[連載 第55回]
出会い、そして成長 〜本当のプライドは育つのか〜(前編)
Posted 2022.11.18

3万人に1人とも言える、思いがけない縁

生まれてから死ぬまでの間、人はどのくらいの他人と出会うのだろうか? 一説には、一生の間に何らかの接点を持つ人の人数は3万人。その中で学校や職場で知り合う人が3000人で、親しく言葉を交わす人は300人とも言われる。仮に1日に1人と出会い、その人が80歳まで生きたとして計算すると、そうした数になるのだそうだ。では、その3万人の中から、人生を根底から変える運命的な出会い、あるいは「その人のおかげで今の自分がある」と言えるような貴重な出会いはどのくらいあるだろう。

数々の映画や朝ドラ・大河ドラマへの出演で知られる女優の尾野真千子は、中学3年のとき、当時、映画撮影のロケハンで奈良の山村を訪れていた新進気鋭の映画監督・河瀬直美との出会いから『萌の朱雀』のメインキャストに抜擢され、女優への道を歩むこととなった。その土地に生きる人々の姿を瑞々しく描こうとする河瀬監督の意図とはいえ、尾野が河瀬に声をかけられたのは、授業を終えて下駄箱の掃除をしていたとき。演技経験もない初対面の女子中学生にとって、その出会いはまさに3万人に1人の巡り合わせだったに違いない。

コーチとの運命的な出会いは、世界の王貞治にもあった

スクリーンの中から人々を魅了する俳優にしろ、フィールドで観客を虜にするアスリートにしろ、限られた者だけが夢を叶えられるプロの世界。そこには運命的ともいえる師との出会いがあるものだ。

運命的と聞いてプロ野球のオールドファンが真っ先に思い浮かぶのは、“世界の王”こと王貞治氏とジャイアンツで打撃コーチを務めた故・荒川博氏の出会いかもしれない。1930年に浅草で生まれ、早稲田実業・早稲田大学を経て1953年に毎日オリオンズへ入団した荒川は、隅田公園を愛犬と散歩していたある日、当時14歳の王がプレーしていた草野球をたまたま観戦。マウンドでは左投げの王が右打席に立って凡退しているのを見て「坊や、左利きだろう? 次の打席は左で打ってごらん」と助言した(※1)。「はい」と二つ返事をした王は次の打席で2塁打を放ち、その非凡な能力と素直さに感嘆した荒川は、母校である早稲田実業への入学を勧めたのだ。

「それが人生の転機だったことは間違いない」と王は自著で語っている(※2)。早稲田実業に進学した王は、1957年、3試合連続完封の快投で選抜優勝を果たし、夏の甲子園では延長11回ノーヒットノーランの記録を打ち立てる。翌年の春の選抜では2試合連続本塁打を放つなど打撃でも活躍。1959年に高卒新人としては破格の契約金で巨人へ入団した。だが、そんな王でさえプロ1年目は打率.161の7本塁打。プロの速球に対応しようとするあまり変化球にも振り回され「三振王」と野次られるほど三振の数も多かった。2年目に打率.270・17本塁打と奮起するが、3年目には成績を落とすなど、球団の期待に応えるほどの活躍はできていなかった。

そうした王の前に再び現れたのが、現役を退き、巨人軍の打撃コーチへ就任した荒川だった。中学時代の王と出会ってから7年後の再会。川上哲治監督から「王を25本打てるバッターに育ててほしい」と頼まれた荒川は、秋季練習から付きっ切りで王を指導した。右足を踏み出すタイミングに対してバットの出が遅くボールに食い込まれていた王に、荒川は「一本足打法」を提案。打撃フォームの改革に半年間苦しんだ王だったが、合気道や居合道も取り入れた連日連夜の猛練習はついに結実する。1962年7月1日、川崎球場で大洋ホエールズの稲川誠からホームランを放った王は、7月だけで10本の大アーチを描くようになり、それが通算本塁打868本の大記録への序章となった。

投手だった井端弘和に、野手転向を勧めた人物とは

井端弘和もまた、中学生時代に人生を変える出会いがあった。
「自分にとっての転機といえば、やはり野村(克也)さんとの出会いが全て。あの電話がなかったらプロ野球選手になれていないと思っています」

中学3年の頃、井端の所属する城東品川リトルシニアは、地区の大会で準決勝を勝ち抜いていた。当時の井端のポジションはピッチャー。一方のブロックで準決勝へ進出していたのが、かつて野村沙知代さんがオーナーを務めていた港東ムースというリトルシニアチーム。次の対戦相手となる井端の試合を見ていたのが野村克也さんだった。井端のフィールディングやバッティングにセンスを感じた野村さんは、井端の自宅に電話をかけ、ショートへの転向を進言。さらに息子の野村克則氏を預けていた堀越高校への進学を勧めたのだ。

「野村さんに堀越高校を勧められていなかったら、たぶん近所の公立で野球やるくらいしか選択肢がなかったと思いますし、まして『ショートをやれ』と言われてなかったら……本当に不思議だなって感じですよね」

そして堀越高校に入学した井端は、高尾のグラウンドで野球選手としての礎を築いていくことになる。当時、堀越高校の野球部を率いていたのは、その厳しい指導方針が「精神野球」と形容されることもあった桑原秀範監督。野球の指導はもとより、寮生活や授業態度まで、つねに部員一人一人に目を光らせ、少しでも怠けたり手を抜こうものなら即座にキツイしごきが待っている。毎年5月には、天候に関係なく朝5時から夜中の0時まで練習する地獄のような合宿もあった。

「毎日、誰かしら桑原監督に怒られるような日々。高校に入って初めて『憂鬱』という言葉を使うようになった」と井端は当時を振り返る。
「日頃から選手にプレッシャーを与えて野球をさせる監督でしたから。自分も精神的に追い詰められることもあったし、その後の人生、桑原さんより厳しい指導者はほかにいなかったですね」

(つづく)/文・伊勢洋平

※1 NHK映像ファイル『あの人に会いたい 荒川博(プロ野球コーチ)』より
※2 『もっと遠くへ』王貞治/著(日本経済新聞出版)より