Center line 〜センターライン〜
元読売巨人軍・井端弘和氏が、野球にまつわる様々なテーマを、独自の目線で深く語るYouTubeチャンネル『イバTV』を配信中! コラム 〜センターライン〜 では『イバTV』の未公開部分を深堀りし、テーマに沿ってお届けします。
[連載 第65回]
現状からの卒業(前編)
Posted 2023.06.30
©アフロ

現状を打破し、日々進化するアスリート

「先送り」や「事なかれ」という言葉が耳に馴染んでしまっている昨今、日本人や日本企業が「リスクを冒してチャレンジした」「イノベーションを起こした」などという話題を聞くことはめっきり少なくなった。実際のところ、社会科学者たちによる国際プロジェクト「世界価値観調査」のデータでも日本人のリスク回避思考は顕著で、「新しいアイデアを考えつき、創造的であること、自分のやり方で行うことが大切」や「冒険しリスクを冒すこと、刺激のある生活が大切」といった項目を肯定する日本人は60カ国中最下位となっている。さらに、コロナ禍では「同調圧力」の根強さが浮き彫りになり、かつてはさほど拡がらなかったゴシップがインターネットやSNSを通じて拡散・炎上するようにもなった。人の目を気にしすぎてリスク過敏になっている風潮もある。

そうした閉塞感に風穴を開け、明るい話題をもたらしていることといえば、サッカーW杯や野球のWBC、そして8月のバスケットボール世界選手権や9月のラグビーW杯でもその勇姿を見せてくれるであろうアスリートたちの活躍だ。一流のアスリートにとって、自らリスクを取って変化を求めるのは、ある意味、当然のことといえる。スイマーはより速く泳ぐために、ゴルファーはより遠く正確にボールを飛ばすために、リスクを取ってでも現状を打破し、肉体改造やフォームチェンジに取り組むことがある。

幼いころから野球に親しんできた井端弘和は、自身の経験を振り返ってこう語る。
「打撃フォームをどんなときに改善するかって? 全てですよ。遡れば小学校から中学校に上がったときもそうだし、高校や大学に入った時もそう。プロに入ったら入ったで2軍と1軍とでは違うので、また対応しないといけない。そして次は年齢とともに……やっぱり日々変化なんですよ。野手の場合はそんなに変えてないように見えるかもしれないけど、自分の中ではけっこう変えている。結果的に、毎年一緒ということはなかったですね」

平成の大エースは、なぜサイドスローへ転向したのか

「投手と野手では、フォームチェンジに対するリスクの取り方はだいぶ違う」と井端はいう。
「ピッチャーの中にはプロに入って上投げから横投げに変えられる人もいるからね。もちろん急に変えるわけではなく、少し下げた方がいいんじゃないか、サイドにした方がいいんじゃないかと、いろいろな過程を経ているわけで、本人もプロ野球で生きていくために納得した上で変えている」

平成の大エース、斎藤雅樹はプロ入り後にサイドスローへ転向し成功を収めた代表的な投手だろう。市立川口高校のエースだった斎藤は、荒木大輔率いる早稲田実業との練習試合で好投するなど注目を集め、1982年のドラフト1位でジャイアンツに入団するも2軍で結果を出せずにいた。野手転向も囁かれていた中、多摩川グランドを訪れた藤田元司監督は、斎藤の腰の回転が当時のリリーフエース角盈男と同じだったことに着目。「ちょっと腕を下げてごらん」と助言したという。

球速が出たわけではなかった。だが、カーブが面白いほど曲がるようになったという。何より投手であることにこだわった斎藤は、すぐに監督の助言を受け入れ、フォームチェンジに着手した。腹筋や背筋を鍛えながらフォームを固めること4ヶ月。2軍での実戦登板で手応えを掴むと、1984年シーズンでは1軍初勝利。85年には先発ローテを務め、リーグ最多の4完封。89年には3試合連続完封勝利を含む、11試合連続完投勝利という前人未到の大記録を打ち立てたのだ(※1)。

甲子園のヒーローは、春・夏の間でフォームを変えた

周囲から見れば十分な成績を出しているにも関わらず、自らフォームの改造に取り組む選手もいる。2006年、夏の甲子園決勝で駒大苫小牧高校との引き分け再試合を制した早稲田実業高校の斎藤佑樹は、春のセンバツでベスト8に上り詰めた直後、フォーム改造に着手し、夏の大会に挑んでいる。

秋の都大会、ライバルの日大三高や東海大菅生に競り勝ってセンバツの切符を手にした斎藤佑樹の「伝説」はすでに春から始まっていた。早実は、2回戦で“岡山のダルビッシュ”ことダース・ロマーシュ匡を擁する関西高校に7-4でリードしながら9回の土壇場で追いつかれ、延長15回の引き分け再試合に。翌日の再試合で4-3と辛勝したが、斎藤の投球数は2試合で333球に上った。斎藤は準々決勝の横浜高校戦でマウンドに上がるも、その疲労は隠せず3回5失点で降板。チームは3-13の大敗を喫する。

古豪・早稲田実業が甲子園で8強入りしたのは1982年の荒木大輔以来のこと。高校野球ファンは早実の活躍を賞賛した。だが、斎藤は全く満足していなかった。当時の球速はMAX143キロだったが、ほとんどの球は130キロ台。スピードを底上げしなくては、とても夏の大会で勝ち上がることはできない。とはいえ、夏までの3ヶ月足らずで筋力を大幅に上げるのは難しい。そこで思い到ったのが、右膝をグッと沈めて体重移動を行うフォーム改造だったのだ(※2)。

その決断はすぐに結果となって現れた。速球はフォームを変えてから威力を増し、夏の大会前にはアベレージで140キロ、最速147キロを計測。インコースへのストレートで強打者をねじ伏せられるようになった。西東京大会を勝ち上がった早実は、中田翔擁する大阪桐蔭を撃破するなど安定した強さで甲子園の決勝へ進出。そして斎藤は世代最強投手と言われた駒大苫小牧・田中将大との死闘を2試合合計29奪三振で制し、早稲田実業を初優勝へと導いた。結果を出してなお、自ら高みを目指す。リスクを負って英断したからこその飛躍だった。

(つづく)/文・伊勢洋平

※1 『ジャイアンツ伝統のエースたち』斎藤雅樹、村田真一/著(日本文芸社)より
※2 『斎藤佑樹、野球の旅〜ハンカチ王子の告白』 石田雄太/著(web Sportiva)より