Center line 〜センターライン〜
元読売巨人軍・井端弘和氏が、野球にまつわる様々なテーマを、独自の目線で深く語るYouTubeチャンネル『イバTV』を配信中! コラム 〜センターライン〜 では『イバTV』の未公開部分を深堀りし、テーマに沿ってお届けします。
[連載 第69回]
石の上にも30年 〜エンジョイ・ベースボールの系譜〜(前編)
Posted 2023.09.22
©日刊スポーツ/アフロ

自分たちのスタイルを大舞台で結実させた塾高野球部

「やっぱり、初回ですね。仙台育英は相手がピッチャーにうまく対応してきたら、継投、継投で交代していく。初回にその出鼻をくじかれたというのは、ちょっと想定外だったかなと」
センバツでタイブレークの激闘を演じた慶應義塾と仙台育英。その両者の再戦となった夏の甲子園決勝のポイントを井端弘和はそう指摘する。

1番・丸田湊斗の劇的な先頭打者ホームランで幕を開けた決勝は、大声援の後押しを受けた慶應義塾が2回までに3点を奪う鮮やかな先制攻撃。昨年の王者・仙台育英も2回・3回と1点ずつ返し反撃に転じるが、捉えたかに見えた当たりがことごとくファウルになるなど、追いつくことができなかった。

「そうしたところも初回の得点の影響で、いい当たりでも、本来のバッティングならセンター方向に行くところ、どうしても力んで強引になってしまう。焦りじゃないですけど『早く追いつきたい』という気持ちが出ていたと思うんです」

2点から加点できない仙台育英は、5回にエースの高橋煌稀をマウンドに送るが、慶應義塾はツーアウトからしぶといバッティングで一挙5点を奪取。以降は2年生エースの小宅雅己が6点差を守り切り、終わってみれば慶應義塾が前年王者を8-2で圧倒した。

塾高野球部が掲げてきた「エンジョイ・ベースボール」のスローガンは、107年ぶりに掴み取った栄冠とともにフィーチャーされ、マスコミは選手たちの自由な髪型や自主性をこぞって取り上げた。

だが、果たしてエンジョイ・ベースボールは、髪型に象徴される程度のものなのか? 精神論偏重や理不尽な上下関係といった、従来の野球部のスタイルに異を唱え、自分たちの信念を貫いて全国制覇を成し遂げた彼らの道のりは、そう容易いことではなかったはずだ。

やることがなくなるまで練習したからこそエンジョイできる

「髪型は僕の時代の堀越だって伸ばしてましたよ。甲子園に行くときに右へ倣えじゃないですけど丸坊主にしたんです。高橋由伸(桐蔭学園)だって坊主じゃなかったし、そういう高校は少なからず昔からありました」
今になって慶應義塾の髪型が取り沙汰されることに、井端も困惑する。

余談ではあるが、自由な髪型で甲子園に進出した香川の高松一高に対し、広島・広陵の主将が「長髪チームには負けたくない」と言ったことで物議を醸したのは1972年の夏だ。その広陵を破って甲子園ベスト8を果たし、国体でも準優勝に導いた高松一高の久保陽二監督(現・高校野球解説者)は、当時24歳。高校野球の理不尽な慣習を公然と批判し、実績を挙げた先駆者だったかもしれない。

また、佐々木順一朗監督時代の仙台育英も長髪OK、短い練習時間、選手の自主性に任せる練習スタイルを方針に掲げていた。1994年のアメリカ遠征時、相手チームから「丸刈りで来ないで欲しい」と言われ、帰国直後の春のセンバツにそのまま出場したことが長髪チームの契機となったという。仙台育英は2001年センバツで、長髪のエース芳賀崇(現・仙台東高校監督)を擁して決勝まで勝ち進み、故・木内幸男監督率いる常総学院に惜敗。木内監督もまた「のびのび野球」によって選手のやる気を起こさせ、「指示待ち野球」「やらされ野球」からの脱却を図った第一人者だった。

井端は言う。
「エンジョイ・ベースボールやのびのび野球というのは、昔から僕らも聞いていましたが、決してただワイワイ楽しく野球をやっているわけじゃない。楽しく練習したところで、いざ試合で緊張してエンジョイできなかったら意味がないでしょう。どのチームもきっちりと自分たちの目的意識を持って、厳しい練習をしてきた結果が甲子園につながっている。やることがなくなるまで煮詰めて練習し、試合を迎えたら『あとは楽しくやるだけだ』と。それを甲子園の舞台で表現できたのが慶應だったんだと思います」

30年前から受け継がれてきたエンジョイ・ベースボール

エンジョイ・ベースボールの精神を慶應義塾高校に浸透させたのは、森林監督が高校2年生だった1991年に英語教師として赴任してきた上田誠・前監督だ。

湘南高校で投手として鳴らした上田さんは、慶應大学へ進学し、卒業後は桐蔭学園のコーチや厚木東高校の監督を歴任。厚木東高時代は、アリが象を倒すべく、ハードな筋トレを実践したり、強豪・池田高校の教えを請いに出向いたり、アメリカ野球の技術書を読みあさったりと、試行錯誤の毎日だった。

そうした折り、上田さんを慶應義塾高校へ誘ったのが、故・前田祐吉さんだった。この前田さんこそが、自主性を重んじる慶應野球の精神を「エンジョイ・ベースボール」と表現し、1985年に慶應大学を全勝優勝へ導いた名将である。当時の慶應大学は髪型こそ自由だったが、上下関係が厳しく、ボールがイレギュラーすれば、グラウンド整備担当の1年生が謝りにいくような環境。前田さんはそうした風潮を改革し、また、サインに頼る選手たちに対して「ベンチを見るな」と指導。つねに自分で考えることを求めたという。

慶應義塾高校にも旧態依然の体質は残っており、戦績も県大会の3〜4回戦止まり。監督に就任した上田さんもまた、練習後の上級生の説教を廃したり、グラウンド整備や雑用を上級生自ら行うようにするなど、練習の合理化を図った。結果、1年生が十分にバットを振ったり筋トレできる時間や、自主練習に充てる時間が生まれた。上下の垣根を取り払うことで、誰もが言いたいことを言える環境も出来上がっていった。

そして、上田さんは、20項目からなる「部訓」を作成。その最初に「日本一になろう」と書き上げ、2番目に「Enjoy Baseball」の文言を記した。その部訓は、今も慶應義塾高校に引き継がれている。

だが、神奈川県は、横浜高校や横浜商業、桐蔭学園や東海大相模など、全国トップの強豪ひしめく激戦区。とくに松坂大輔や成瀬善久、涌井秀章といった超高校級投手を擁する横浜高校には1勝どころか1点も取れないまま数年が過ぎた。上田監督率いる慶應義塾高校が2005年春のセンバツで甲子園の土を踏むまで、実に14年もの歳月がかかっているのだ。

(つづく)/文・伊勢洋平

参考文献
『エンジョイ・ベースボール 慶應義塾高校の挑戦』上田誠/著(NHK出版 生活人新書)