Center line 〜センターライン〜
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[連載 第70回]
石の上にも30年 〜エンジョイ・ベースボールの系譜〜(後編)
Posted 2023.10.06
©日刊スポーツ/アフロ

一球の重みを知ってからが茨の道

上田前監督によって慶應義塾高校野球部の部訓に記された「Enjoy baseball」だが、20からなるその部訓には、身の引き締まるような言葉が数多く並べられている。

「挨拶は人との最初の勝負」
「闘争心を持て」
「上級生は模範となる練習態度、学業態度を示せ」
「男は危機に立って初めて真価が問われるものだ」
「自分で自分の逃げ道を作るんじゃねえ」

弱いチームが強くなる第一歩は意識改革だ。塾高野球部の部訓には、当時の上田監督の熱い思いが如実に表れている。さらに上田監督は、県大会の壁を打破するべく、アメリカUCLAへ留学。高校生が応用できる技術や指導方法を貪欲に学び、部員たちに落とし込んだ。こと、バットを思い切り振り抜くアメリカ式の打撃練習と、それを実現するためのトレーニングは、慶應義塾を全国屈指の打のチームへと押し上げた。

そして上田監督が最もこだわったのが「絶対に負けるのを嫌え」といった、勝負への執着心だろう。上田監督は数多くの遠征を行い、強豪校と対戦することでチームを強化。当初は実力差をまざまざと見せつけられ、泣きながらプレーする選手もいたというが、何がダメで何が足りないのか、一戦一戦を振り返り、それを補う練習をすることで、強豪校との差が少しずつ縮まっていった。

練習が厳しいのは当然のこと。勝つための厳しい練習を自らの意思で行い、試合では「胃液の出るような緊張を楽しむ」のがエンジョイ・ベースボールの真意でもある。自分で決めた練習をやりきった達成感と、力がついたという事実が、選手をさらに大きくした。

だが、接戦は易し、勝つは難し。とくに甲子園の常連校とは接戦に持ち込めても、なかなか勝ち切ることができない。その一球の重みを知るようになってからが「茨の道」だとも、上田監督は著書で語っている。上田監督が夏の甲子園でベスト8に勝ち上がったのは2008年。その志を継ぐ森林貴彦監督がついに全国制覇を実現したのは、さらに15年後のことだ。

あの蔦監督も、優勝旗を手にするまで30年かかった

一方、2年連続の夏連覇へあと一歩まで迫った仙台育英の須江航監督は、試合後、こうコメントした。
「人生は敗者復活戦。負けてからが始まりだ」

甲子園の連覇が大偉業であることは、これまでの歴史が物語っている。とくに世代の変わる「春連覇」や「夏連覇」、「夏春連覇」といった記録の多くは、大会出場校数の少ない戦前のもので、1970年以降では、PL学園の春連覇(1981-1982年)、池田高校の夏春連覇(1982-1983年)、駒大苫小牧の夏連覇(2004-2005年)、大阪桐蔭の春連覇(2017-2018年)と、半世紀で4校しか達成していない。

実は「人生は敗者復活戦」という言葉は、“阿波の攻めだるま”の愛称でオールドファンに知られる、故・蔦文也監督の座右の銘でもある。蔦監督は「やまびこ打線」で一時代を築き、徳島の山間部にある県立池田高校を春夏計3度の優勝、2度の準優勝に導いた名将として知られるが、29歳で監督に就任した1952年から甲子園初出場まで、20年もの年月を要した。

当時の夏の選手権大会は、現在のような1県1校制ではなく、徳島県は高知県との上位4校が南四国大会で争うプレーオフ方式。県内には自身の母校でもある徳島商業や鳴門高校という高い壁が存在し、高知からは高知高校、土佐高校といった強豪が立ちはだかった。蔦監督率いる池田高校は、南四国大会で4度も跳ね返され、1971年に5度目のチャレンジでようやく悲願の甲子園出場を達成。1974年のセンバツでは部員11人のみの「さわやかイレブン」で準優勝を果たすが、全国の頂点に立ったのは1982年、監督就任から30年後のことだ。

とくに1980年には、長身から速球を投げ込む県内随一の逸材・畠山準(現・横浜DeNAベイスターズ球団職員)が入部し、甲子園での活躍が期待された。だが、夏の県大会決勝では温情で3年生を先発させたことが仇となって敗退。翌年夏も県大会決勝で徳島商業に延長11回サヨナラ負けを喫した。さらに82年のセンバツを争う11月の四国大会では、スクイズ失敗を2度繰り返す拙攻で明徳(後の明徳義塾)に敗れ、毎年のように大一番で勝機を逸してきたのである。

野球で一番楽しいことは何か?

自らの「せっかちで臆病な采配」を責め、一度は打ちひしがれた蔦監督だったが、スクイズ失敗による敗戦は、超強力打線「やまびこ打線」誕生の契機となった。

実のところ、野球少年時代の蔦文也は厳しい練習が大嫌い。稲原幸雄監督が土台を作った野球の名門・徳島商業に入学したのはいいが、「野球は楽しいもんのはずなのに、何でこんな苦しい思いをせなあかんのか」と、そのハードな練習から脱走し、しばらく休部したこともあったという。

そんな蔦監督ではあるが、池田高校の監督に就任した当初は、恩師・稲原監督のような厳しく情熱的な指導こそ甲子園への近道と信じ、猛練習で選手強化を図ってきた。純朴な田舎の高校生というイメージから、勝利至上主義の対極としてマスコミから賞賛された「さわやかイレブン」も、実は蔦監督のスパルタ指導で部員が11人に減ってしまったというのが実情だった。

だが、厳しい練習を重ねて強豪の仲間入りを果たし、畠山や水野雄仁ら、のちにプロで活躍する有望選手が集まるようになっても、大一番では策に迷ったり、小技が振るわなかったりと、なかなか勝ち切れない。とくに試合巧者の明徳には一度も勝てなかった。辛酸をなめ続けた末、蔦監督は少年時代の原点へ回帰したかのように、打撃最優先の攻撃野球へチームを変貌させたのだ。

「わしに細かい野球は向いとらん。野球で一番楽しいんは打つことぞ」

蔦監督は、体育教師の高橋由彦氏に協力を仰ぎ、筋力強化メニューで選手の打球飛距離をアップ。バントをせず「打って打って打ちまくる」野球を目指した。今でこそ食事や筋力トレーニングによるフィジカル強化は強豪校の常識となっているが、その先駆となったのは蔦監督の池田高校だ。練習は平日週4日。時間も3時間半程度だが、守備練習は30分のみ。グラウンドに出た選手はキャッチボールもせずにトスバッティングとフリーバッティング、それを終えると畠山、水野の全力投球を相手にシートバッティングを行うという、徹底した打撃練習に取り組んだ。

また、「練習中は水を飲むな」と言われていた時代、蔦監督はスポーツドリンクを用意し、食事も含め、練習中のエネルギー補給を積極的に行ったことでも知られる。
「やっと出場できた甲子園で試合をするのが楽しくて仕方なかった」
そう畠山が語るように、金属バットの快音を思う存分に響かせた池田高校は、82年夏、早稲田実業のスター荒木大輔から14点を奪って全国制覇。83年春には宿敵・明徳高校に競り勝ち、夏春連覇を達成するのだった。

107年ぶりの優勝を実現した慶應義塾と、30年かけて高校野球に革命を起こした池田高校。時代も地域も校風も全く異なる2校ではあるが、その悲願達成へのプロセスや、数多くの敗戦経験をベースに確立された先進的スタイルには、どこか似通ったものが感じられる。

慶應義塾を春夏4回甲子園に導いた上田誠・前監督は、こう振り返る。
「あるとき、『自分がこれまでやってきた野球を、甲子園でもやらないとつまらない』、そんなふうに開き直って考えられるようになった」

夏の余韻の冷めやらぬ高校野球は、すでに秋季大会へと突入している。人生の敗者復活戦に挑み、「野球の楽しさ」をセンバツの舞台で表現してくれるのは、果たしてどの高校だろうか。

(了)/文・伊勢洋平

参考文献
『エンジョイ・ベースボール 慶應義塾高校の挑戦』上田誠/著(NHK出版生活人新書)
『阿波の「攻めダルマ」蔦文也の生涯』富永俊治/著(アルマット)
『蔦文也と池田高校 ― 教え子たちが綴る“攻めだるま”野球の真実』(ベースボールマガジン社新書)