Center line 〜センターライン〜
元読売巨人軍・井端弘和氏が、野球にまつわる様々なテーマを、独自の目線で深く語るYouTubeチャンネル『イバTV』を配信中! コラム 〜センターライン〜 では『イバTV』の未公開部分を深堀りし、テーマに沿ってお届けします。
[連載 第37回]
チームの結束を生む、名将の監督力(前編)
Posted 2021.09.03
©長田洋平/アフロスポーツ

最高のチームを作り上げた稲葉監督

侍ジャパンがついにオリンピックの頂点に立ち、悲願の金メダルを獲得した。米国の攻撃を断ち切って試合を閉めた栗林のもとへ侍ジャパンの戦士たちが集まり、歓喜の輪を作る。
「金メダルを取りたいという思いが結束した、本当にいいチームだった」
歓喜に湧く選手たちを見つめた稲葉篤紀監督は、試合後のインタビューで感慨深げに語った。

就任時、稲葉監督の監督経験はゼロ。だが、稲葉ジャパンはプレミア12で8勝1敗、東京五輪では5戦全勝で優勝し、歴代の代表監督の中でも無類の勝負強さを誇った。決してラクな戦いではなかったが、ここぞの勝負どころで、選手たちは痛快なまでに持てる力を発揮した。その強さの裏には何があるのだろう。

稲葉監督自身はチームが結束できた要因として「4年間かけて金メダルを目標にチームを作れたこと」、そして「選手が日本代表に来たときの役割をしっかり理解してくれていたこと」を挙げる。稲葉監督が当初から伝えてきたことは「勝利への自己犠牲」。各球団のスター選手であっても、代表に来たからにはチームのために何をするべきか、自身の役割を最優先に考え、準備をしなくてはならない。その考え方が24人の侍戦士すべてに共有できていたことが大きいという。

“壁のない”稲葉監督が体現した、以心伝心

「そのためには、やはり監督と選手のコミュニケーションは欠かせない」
そう語るのは、稲葉監督とともに内野守備・走塁コーチとしてジャパンを金メダルに導いた井端弘和だ。
「稲葉さんはコミュニケーション上手ですからね。多くを語るわけではないですが、しょっちゅう選手の雑談に交じって会話しているし、一定の選手だけでなく、どの選手とも満遍なく話をする。僕が代表選手だった頃は、長嶋さんはもちろん、星野さんも山本浩二さんも、大先輩ですからどうしても壁があるわけで…… そういう意味では若い稲葉監督は、現役時代がかぶっている選手もいるし、選手たちもやりやすかったのかなと」

今回の侍ジャパンのベンチでは、選手が役割や監督の意図を理解し、選手の側から指揮官に話しかける場面がいくつもあった。例えば、坂本勇人はノーアウト2塁の場面で「バントしますか」と自ら稲葉監督に尋ねたという。また、タイブレークとなった準々決勝では、甲斐拓也が「打っていいですか」と稲葉監督に志願し、劇的なサヨナラ勝ちを収めた。

こうしたシーンについて井端は言う。
「選手としては、ああいうシーンで『どっちなんだろう?』と迷いながら打席に行ってサイン見て『えっ、バントか』みたいになるなら、最初から聞きたいってのはあるんですよ。僕も現役時代そう思ったことがあるからよく分かる。とくに短期決戦の勝負どころでは、1秒でも早く知りたいものなんです」

打席に向かってからサインを見ていたら10〜20秒は経ってしまう。甲斐が打った場面は、1死2・3塁。いくつかの選択肢が考えられる場面だ。
「スクイズもあるんじゃないかと考えて打席に立ったら『とりあえず1球待とう』と思うかもしれないし、それが命取りになることもある。あそこで先に監督に『打っていいよ』と言われれば、『よし、じゃあ行こう』と気持ちを整理して打席に向かうことができますよね。そうしたやりとりができたのは、選手にしてみれば非常にやりやすかったと思います」

選手と監督の信頼関係が、究極の場面で生きる

いい雰囲気でスムーズに勝ち上がっていくチームは、ここぞの場面で思い切った攻撃がハマるチームでもある。それを「勢い」と表現することもできるわけだが、その裏には必ず選手と監督との信頼関係が垣間見られるものだ。

かつて初出場で夏の甲子園ベスト8へ躍進し「ミラクル」と呼ばれた旭川実業高校は、1995年の2回戦、古豪・鹿児島商業に11-13でリードされていた9回2死から4点を奪う壮絶な逆転勝利を演じた。

9回に出塁するも相手のファインプレーで2アウトに。万事休すと思われた旭川実業は、4番・岡田隆紀のソロHRで1点差に追いすがると、5番・角井修はサードへ放った打球がイレギュラーバウンドとなり出塁。続く6番・岸辺一孝がフォアボールを選び、2アウト1・2塁となった。このアウトひとつで試合終了という場面で、旭川実業は初球にダブルスチールを敢行する。この走塁はサインではなく、2塁走者の角井から1塁の岸辺を通じてベンチの込山久夫監督へ合図されたもの。
「いけます。走ります」
ダブルスチールは、鹿児島商の捕手が呆然と立ち尽くすほど鮮やかに決まった。旭川実業は、続く7番が長打を放ち、2者生還の逆転劇となったのだ。

そのダブルスチールについて、後に岸辺は「僕らは監督の考え方が分かり、監督は僕らの考え方がわかるんです」と語っている(※1)。込山監督自身「さすがに驚いた」というが、選手を信頼してうなずいた結果だった。

帝京・前田監督が行き着いた、真の自主性

今年の夏は、東海大相模で春夏4度の優勝を達成した門馬敬治監督や、30年間で春夏22回、浦和学院を甲子園に導いた森士監督ら、高校野球の名将が相次いで勇退。さらに“東の横綱”帝京高校を率いて甲子園通算51勝を果たした最古参、前田三夫監督も50年の節目を理由に監督から退いた。1972年に帝京野球部の監督に就任した前田監督は、厳しいスパルタ指導で知られるが、長らく第一線でチームを率いる中で、選手とのコミュニケーションのあり方を考えたこともあったという。

90年代頃からだろうか、野球のみならず部活動の指導方法は「管理」から「自主性」を重んじるものへ変わりつつあった。帝京の指導は時代遅れ。そんなことが言われるようになり、前田監督もあえて練習メニューや時間管理を選手の自主性に任せたことがあった。だが、自主性とはそう簡単なものではなかった。1998年、帝京高校は主将の森本稀哲(元日ハム)を中心に前田監督の期待に応え、夏の甲子園へ出場したが、チームは和田毅(ソフトバンク)を擁する浜田高校に不覚を取り、早々に敗退。選手たちが試合前にゲームセンターで遊んでいたことも発覚する。

逆に初優勝した89年のチームは宿舎からの外出も禁止の管理型指導だったが、エース吉岡雄二(現富山GRNサンダーバーズ監督)ら、選手たちはみな前田監督が来る前からミーティングを始めるなど、緊張感がみなぎっていた。優勝という目標に向かって、いま何をすべきか、監督の考えを理解し結束していたという。
「監督が、選手自ら動くような体制を作ってやることが自主性だと思う」(※2)
この名将の言葉もまた、良いチームづくりに大切なひとつの真理ではないだろうか。

(つづく)/文・伊勢洋平

※1 『心が熱くなる! 高校野球100の言葉』田尻賢誉/三笠書房
※2 『人を動かす 高校野球監督の名言』田尻賢誉/ベースボール・マガジン社